一昨日の日経の夕刊で、作家の桐野夏生さんのインタビュー
が掲載されていて、興味深く拝読した。
その短いインタビュー中で特段に行数を割かれていた
現代社会、とりわけその情報社会に向けられた
桐野さんの言葉が目を引いた。
インタビュアーと桐野さんの
やり取りすべてが現代の状況の
説明として面白かった。
小説も、昔は例え入り口が個人であったとしても
その入り口から語られるものは世界に通じていた。
個人は世界や社会の反映であった。
それは個人が社会の倫理にくびきを打たれていたから
こその芸当だった云えるんだろう。
東浩紀が云うところの「動物化」やこのインタビューで
桐野さんが述べた、「一線を越える」ことこそが
その社会によるくびきを打ち切っている状態なんだろう。
倫理やそれ以外の大きな物語が個人と連続していない現在
大きな物語を書いたところで見向きもされないし
そもそも書かれることは何かの意図無しにはありえない。
東がオタク文化の変遷から帰納したものと
桐野さんが作家の視点から現代社会の変遷を演繹したものが
全く同じ考えに行き着いている。
「動物化」という情報社会の住民の原理説明は
的を射ているのかなぁと思えてきた。
ただインタビューの中であった
「電車の中で化粧をしている女性にとって
周りの人々は風景と同じ」というものはどこかで
読んだ気がした。そこだけ引っかかりを覚えた。
が掲載されていて、興味深く拝読した。
その短いインタビュー中で特段に行数を割かれていた
現代社会、とりわけその情報社会に向けられた
桐野さんの言葉が目を引いた。
インタビュアーと桐野さんの
やり取りすべてが現代の状況の
説明として面白かった。
小説も、昔は例え入り口が個人であったとしても
その入り口から語られるものは世界に通じていた。
個人は世界や社会の反映であった。
それは個人が社会の倫理にくびきを打たれていたから
こその芸当だった云えるんだろう。
東浩紀が云うところの「動物化」やこのインタビューで
桐野さんが述べた、「一線を越える」ことこそが
その社会によるくびきを打ち切っている状態なんだろう。
倫理やそれ以外の大きな物語が個人と連続していない現在
大きな物語を書いたところで見向きもされないし
そもそも書かれることは何かの意図無しにはありえない。
東がオタク文化の変遷から帰納したものと
桐野さんが作家の視点から現代社会の変遷を演繹したものが
全く同じ考えに行き着いている。
「動物化」という情報社会の住民の原理説明は
的を射ているのかなぁと思えてきた。
ただインタビューの中であった
「電車の中で化粧をしている女性にとって
周りの人々は風景と同じ」というものはどこかで
読んだ気がした。そこだけ引っかかりを覚えた。