NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

Rock Band!

2009-09-28 | 休み
日本発売に期待!ビートルズマニア必見の『The Beatles:Rock Band』(ファミ通)
当日E3のMicrosoft Conferenceをネット生中継で観ていると、しょっぱなからヨーコにジョージの奥さんだけでも驚いたのにポールにリンゴまで登場し、好きだけど特段ビートルズに思い入れも無かったぼくも度肝を抜かれてしまったのを思い出します。そして先日9月9日、日本でも発売されたリマスターと同時に欧米ではリリースされました。

―The Beatles: Rock Band - E3 2009: Debut Trailer(Youtube)


ジョージの息子がディレクションに噛んでいるようで思い入れたっぷり。完全とは言えないまでもビートルズの歴史を網羅したステージ構成は大したファンでもないぼくも惹かれてしまいます。エド・サリバンショーステージに、おそらくはアメリカでのスタジアムライブステージ、「I Am the Walrus」のPVステージ、スタジオ録音ステージ、そして日本武道館ステージに例の屋上でのライブステージetc。



パーフェクトパフォーマー実在のミュージシャンをフィーチャーした音ゲーはプレイステーション時代からありました。古くはエアロスミスを題材としたPS用ソフト『Quest for Fame』。「ピック型コントローラでどんなものでもギターになる」が売りで、確かCMでもテニスラケットをギターに模して演奏していたような気も。日本だと布袋寅泰さんで続編の『Stolen Song』もリリースされています。

近年だと実際の楽曲の使用はもちろん、アクティヴィジョンが『Guitar Hero』シリーズでエアロスミスやメタリカを題材としたスピンオフ作品をリリースしてましたが、今回はEA/MTVゲームスの『ROCK BAND』シリーズで初めてのスピンオフ作品。ビデオを観ただけで言うのもなんですが、クリエーターのやる気やクオリティに大きな差がありそうな完成度です。ビートルズというチョイスが、もう。

しかもこれまでの音ゲーと異なるのはデバイスの本気加減です。もともと『ROCK BAND』シリーズはロックバンドを再現したゲームだけあってヴォーカルのマイクからギターにベース、そしてドラムに至るまでプレイできるというのが大きな売りで、しかもゲーム機標準のコントローラでは操作できず専用のギター、ベース、ドラムを模した楽器コントローラのみが操作出来るという鬼仕様。

海外の住宅事情があってこその構成ですが、それにしても凄すぎます。ゲームをするためなのにちょっとしたバンドをやるくらいのスペースが必要というのは、住環境が許すということ以前に欧米特有のリアリズムの発露のような気もします。大体今回の『The Beatles: Rock Band』にしても、ソフトとベース、ドラム、マイクがセットになった「Limited Edition Premium Bundle」も約250$、ジョンとジョージのギター、グレッチとリッケンバッカーが別売りでそれぞれ約100$と価格も凄い。


GET BACK on the roof※IGNより。アップル社の屋上での「GET BACK」。まさかゲームで観られるとは。

国内で輸入品の価格を見てみると、「Limited Edition Premium Bundle」が3万から4万円。グレッチとリッケンバッカーはそれぞれ1万5000円から2万円。家でビートルズを再現しようと思うと、安くて6万、高いと8万くらいかかるという超凶悪ゲームです。ソフトを単品で買って、USBマイクでヴォーカルのみプレイするという安い選択肢もありますがそれじゃ侘し過ぎます。

9月9日のリマスターCDの発売は時差の関係で日本が世界最速発売。山野楽器などでは深夜0時に発売イベントを開くなど大変な盛り上がりを見せ、結局国内だけでも2週間で200万枚以上のセールスを記録しています。それだけビートルズには潜在的な需要があるということのようです。ビートルズファンが皆ゲームに興味があるとは思いませんが、EAやSCEは検討してくれないかなぁ。

最終回でした

2009-09-27 | 休み
アーティストによって聴講生の層が異なるのは至極当然のことなんだけど、それまでのアーティストの回に比しても超満員の教室。そしてこれまでの聴講生とは毛色の違う人が多い。ファッションも明らかに垢抜けていて、質問者が多いということもあるんだろうが、音楽専門学校生が居たのもこれまでで初めて。幅広い。

Kjがどれほど本気で音楽に取り組んでいるのか、またどれほどそれを大切に思っているのかが伝わってくる最終回でした。ぼくというパーソナリティとKjの生み出す詩世界とのあまりのギャップに怒りをぶちまけてしまったのが恥ずかしいです。でもそれはぼくとしては当然のことのよう。

ロックだろうがフォークだろうがヒップホップだろうがテクノだろうがエレクトロだろうがオルタナだろうが、ぼくが求めるものはKjの世界には無い。影みたいなもの、憂いみたいなものは一切無い。それはKjの信念のようなもののよう。大物バンドとかでも結構あるのにKjの詩世界にはまるで存在しないもの。


Kjのまなざしが全2回の中で一番端的に現れていたのが最後の学生から質問コーナーでした。いつもより多い学生からの質問の中から一部その回答を以下に引用してみたいと思います。○=質問、●=Kj。

Kj

○一番好きな曲の歌詞は何ですかという質問に、「ちょっとごめんね」と小さく謝り、少し考えてからKjは答えます。

●「最近配信だけで出してる「CALLIN'」という曲。最近言葉をアートの一部としないというか、伝えてナンボみたいな感覚にちょっと変ってきてて。ちょっとおっさんになっちゃったのかも知んないんだけど。俺ってこんなにまっすぐな言葉で物事言えるんだなって。新鮮だから。ライブでもさ、配信だけだから知らないやつとかもいっぱい居るじゃん。でもやってて、そんなに言葉詰めてないから全部聞き取れたりとかさ、初めてやってんだけど分かるみたいな。その音楽の力の一番シンプルで重要なところを10年以上やってまたそれに打ちのめされてる。「CALLIN'」は結構いいかな。」


○花の百合が、Lilyという英語名でも、歌詞で頻出するがその意味・意図はどういうところにあるのかと問われて、言葉を選びながらKj。

●「自分は音楽を通して、嫌な思いも良い思いも凄くたくさんしてるし、音楽をやっているって言うだけではなくて、音楽ビジネスの中に居るじゃん。だからさ、そんなに胸張って言えないこととかもさぁ、あるし。実際セールスが無かったら、食っていけないわけじゃない?俺らの職業ってさ。だけど、音楽を作っている時とライブに来ている人たちへの接し方とか、音楽に対する気持ちだけは絶対にピュアでなきゃ、アーティストは駄目だと思うし、それが後で人に伝わった時に評価されるものだから、自分はそれが正しい、好きなことだって思ってないとおかしいと思うのね。職業作家じゃないしさ、自分でバンドやってるわけだから。だから花言葉が凄い清らかなもの、純白な、純粋なものっていう花言葉だから、百合は。音楽に対する気持ちとか姿勢って言うのは白百合のようなものでありたいな。っていうことです。」


○ラテンミュージックとのミクスチャー以降のDragon Ashに影響を受けて、ラテン語を専攻し、ついにはスペインへの留学を予定しているという外大生の報告にうれしそうだったKj。その学生からのラテンミュージックミクスチャーやラテン語の詩を使うようになった契機を訊かれて。

●「まずラテンっぽいものを取り入れたきっかけは、音楽的なことになっちゃうけど、俺は作る上でビートとか体感リズムって言うのを一番大事にするのね?リズムを突き詰めてゆくとラテンのリズムとかがアチィー!な、みたいな。フラメンコギターとかさ、いわゆるガットギターどリズムセクションだけでダイブさせる曲、みたいなものを模索してて。そっから言葉は連なってきちゃってるって言うか、リズムがこうだからやっぱりそういう言葉のほうが合うじゃん。日本語をこうやっておいていくより。」


○22歳にもなる大学生から大人になる僕たちに望むこととアドバイスをと求められると、Kjは「痛いロックバンドのヴォーカルの話だと受け止めて欲しい」とエクスキューズをつけた上で率直な言葉でストレートにアドバイスを投げかけます。

●「”しょうがない”と言う言葉が大嫌いで。それはいくつになってもそうで、日本語の嫌なとこっていうかさぁ、侘び錆で上手く片付けちゃう、みたいな。なんていうのかなぁ、言葉のマジックなんだけど、単純に諦めているだけなのに”しょうがない”とか言ってみる、みたいな。いやいや色々制約があって…しょうがないから、みたいな。”しょうがない”とか言っちゃたら何でも済んじゃうから。そんな餓鬼の頃とか若い頃からとか、”しょうがない”とか絶対使わないほうが言い。何だって。”しよう”があるから。」



……っと、もっと一杯引用しようと思ったけど、書き起こすのが辛い。楽しくない。何度も聴いていてストレス。すんごいストレートなポジティブ。もうちょっとひねててその表現が歪曲してればと、歪んでるぼくは思うのです。たとえばKjが聴いていたという甲本ヒロトさんの表現するストレートとは似て非なるストレートさ加減。Kjの詩は熱は帯びているが、ぼくのような人間が感情を乗せられる隙間はどこにも無い。

そしてとにかく熱い。ブラックカルチャーに通じるような地元愛、仲間、絆みたいな体育会的なメンタリティーというか。ドラマ版『ごくせん』や『ルーキーズ』などのヤンキーカルチャーの世界観というか暑くて、厚くてストレート。おいらの大嫌いな価値観とその表現の仕方だ。そして質問者もまたKjと同様のパッションをその質問内容に称えていたし。ある質問者は起立中、腕を後ろに組んでいた。

結論としてはすごいんだろうけど、ぼくには理解できてそれを心から楽しめるものではないということ。すべてに可能性を開けることはすばらしいが、ぼくにはそれは出来ないし無理して聴いたらストレスになる。がんばってポジティブに読み取ろうと思ったけれど、暗くて重い部分がそれを許さないというか。頑張っても偽れない。詩の上にある言葉しかない。音を聴かせるバンドならそれで十分だけどさ。



「佐野元春のザ・ソングライターズ」(NHK)
さぁ、「佐野元春のザ・ソングライターズ」は最終回でした。


「僕はポピュラーソングのソングライターこそが現代の詩人だと思います。」
「ポップソングは時代の表現であり時代を超えたポエトリー、僕はそう思っています。」


毎回のはじめに差し挟まれるこの佐野さんの言葉。今シーズン(次のシーズンの有無はアナウンスされていませんが)は「時代を超えたポエトリー」の部分が「現代の詩人」という部分を上回っていたように思います。今回の6人中4人はキャリア30年以上の大ベテラン。残りの2人にしても10年以上のキャリアの人たちです。もっと若い人が居ても良いのではとも思いました。

ただそんなことを思いながらも現在売れている楽曲はどうなのだろうと思う部分も。多くの人に支持されている、共感されているということを端的に表すのはやはりチャートです。CD売り上げチャートや着うたダウンロードチャートが今の感性を最も反映していると言えると思います。言えるんですが、やっぱりそれだけで良いのか、とも思うんです。チャートが必ずしも質を担保しているわけではないし。

ポップミュージックは現代の詩人という割りに6人中4人がキャリア30年以上の超ベテラン。残りの2人にしてもキャリア10年以上という21世紀以降の新人の不在は佐野さんは提示した概念とはいささかかけ離れているような。ある程度評価が定まった人が出たほうが面白いですが、それにしても現在のカッティングエッジな人が独りくらい居てもいいんじゃないかとは思います。

とは言いつつも、もはや最近の若いミュージシャンに心惹かれるものが沸かないという見事なおっさんなので、どういう人たちがそこに位置するかも見当も付きませんが、大御所・中堅・若手くらいの幅は期待してみたいです。女性が矢野顕子さんだけだったのも寂しい。中島みゆきさんや椎名林檎さんくらい出るのかとも思いましたが、やはり難しいようで。


個人的には電気グルーヴのピエール瀧さんやthe birthdayのチバユウスケさん、ザ・クロマニヨンズの甲本ヒロトさんあたりが観てみたいですが、矢野さんであれだと難しいやも知れません。一番観たいのはハンバートハンバートのお二人なのですが、すでに評価が定まった著名なミュージシャンが出る傾向が非常に強い番組なのでクオリティはともかく知名度的には厳しそうです。

「国語」―ハンバートハンバート(Youtube)


それはともかく詩に焦点を合わせるというのはありそうでなかった面白い視点の番組でした。続編があることを期待して。

テレビが大好き

2009-09-26 | 休み
草野キッド
※「草野キッド・さよならスペシャル」の図。いつもはそのままの会議室での撮影だったけど、最終2回は後ろにこれまでの視聴率が張り出されています。この後ろに大きく張り出された視聴率は番組の誇りと無言の抗議かも知れません。29日が最終回です。



テレビ不況が報じられる中で次々と番組が終了して行っています。特に酷いのがテレビ朝日。午前0時以降のバラエティ番組は原則打ち切りの方針で、いくら内容が充実していようが視聴率がよかろうが打ち切りになっています。いわく広告収入の落ち込みから、放送外収入、つまりは物販などの広告以外の収入を求めなければならないからと言うのがその理由だそうです。

「爆笑問題の検索ちゃん」(テレビ朝日)

かろうじて「タモリ倶楽部」のみ例外的に救われましたが、続く「検索ちゃん」は他の番組同様打ち切りです。東京来てから4年の間、疲れて帰った後や会社時代飲みに連れて行かれてクタクタになった週末、「タモリ倶楽部」と「検索ちゃん」にどれほど救われたことか。「タモリ倶楽部」でクールダウンしてから、「検索ちゃん」で1週間の疲れをすべて洗い流す。これほどの薬はありませんでした。


基本的にテレビ番組はスポンサーがお金を出して、放送局がそのお金を元にスポンサーのCMをたくさんの人に観て貰えるように魅力的な番組を作ることが、前提としてあったとぼく個人は理解しています。だからどれだけの人にその番組を観てもらえているか、ひいてはCMを観てもらえているのかの一つの目安が視聴率なんだと思っていました。

だからどんなに内容が低俗(と、見なされていても)でも、PTAが「子供に見せたくない番組」としても、多くの番組が継続してこれたのはとどのつまり視聴率がよかったからです。視聴率と言う評価、その一点のみにおいてその番組は内容が担保されているわけです。どんなに内容の良さを訴えようが、そして客観的に良質な番組だろうが視聴率が悪ければ打ち切りでした。

問題も指摘されていましたが、一面で非常にわかりやすい物差しでした。どんなに内容が高尚でも低俗でも、視聴率と言うものの前では平等です。想像でしかありませんが、作り手も例え番組が打ち切りの憂き目にあっても理由が視聴率の不振であればまだ納得は出来たものと思えます。それは視聴者も同様でいくらお気に入りでも周りがほとんど観ていないような番組ならば終了も諦めがつきます。

でも今回はそうでは無いようなのです。広告収入の全体が激減しているため、いくら視聴率を取ろうがお金を稼げない番組は打ち切られると言うのです。番組をDVD化出来たり、企業タイアップが出来たり、お金を使ってくれる視聴者が付いている番組以外は駄目みたいです。なのでこれからテレビ番組はDVDにしやすくて、露骨にタイアップをした、通販番組のような番組が増えるかもしれません。


「ミスターTVプロデューサー」―忌野清志郎(Youtube)


こんだけ書いて何が言いたいかというと、「検索ちゃん」が終わってしまって本当に残念だと言うことです。今日も面白かったです。そして田中さんは本当にモンスター。面白いという価値観だけでは駄目なんでしょう。もうテレビなんて観ないと言いたい気分。でもまだ面白い番組も多いので無理なんでしょう。出来るのは後番組を観ないという選択肢くらいでしょうか。



完全終了では無いようなので、年末特番とか時々でもあると良いなぁ。

今だからこそ伝えたいこのPoem

2009-09-20 | 休み
まず教室の学生の多さに驚愕。後ろまでずらーっと居並ぶ学生。まだ夏休みなのにしゃらくせい。そして学生の垢抜けている感。不思議な違和感。いつもと違う学生層。おしゃれだぞう。


佐野元春のザ・ソングライターズ(NHK)


う~ん。好き嫌いというか、合う合わないの問題なので仕方ないですが、ぼくは全く惹かれない音楽だし、詩世界です。ロックうんぬんラップうんぬんとかそういう問題ではなく、ペーソスとかブルーズが足りないというか。本当にその詩とか言葉を信じてるのか?って言う部分でスルーしてしまいます。良くないことだと思います。

ぼくの苦手なラップが多いのも苦手な理由のひとつだと思います。大きな理想を謳う詩、愛を歌う詩、ファミリーを称える詩、犯罪自慢などなどラップの詩の苦手な部分の多くが入っていて眩し過ぎたり、臭過ぎたり(臭いと感じるのはぼくの問題)して”無理”です。これがHALCALIくらいしか好んで聴くことが出来ない理由かも知れません。最近のHALCALIは良くわかんないですが。

「ギリギリサーフライダー」―HALCALI(Youtube)


言うほどクオリティーが高いのか。その点でも大いにぼくは疑問に思います。盆百のポップソングの詩との違いって何なのか。ぼくにはよく分かりません。「陽はまたのぼりくりかえす」にしても90年代の時代の閉塞感を「閉塞感です」って歌ってるだけじゃん、と。しかも言葉のチョイスやあわせ方がありえないくらいに臭いし、ダサい。

でもこのダサさや臭さについてはKjも自覚してるかもしれません。元春さんが「Viva La Revolution」ポエトリーリーディングをした後に自身の詩の感想を訊ねられて。


「やっぱり音楽が楽しくて、こういう音が鳴らしたくてという延長線上に、ギターのリフ考えるみたいに言葉があって。その言葉を書き留めてって文章にしたりとか、思ってることを飛躍さして長文にしてみたりみたいなことなので、違和感があるというか、恥ずかしいですけどね。ディストーションギターに埋もれてて言ってるから言えるみたいな。」


と、ここだけ抜き出してみると、Kjも恥ずかしいと思っているわけです。自分でも恥ずかしいと思いながらも、それを”音”として割り切っているわけです。そういう考え方は”あり”だと思いますし、実践しているミュージシャンは多いです。でも、ならそこに意味性とかを見出してみようとか思うなよっ!とか思うのですが、恥ずかしいと思う詩にもしっかりと伝えたいものを込めるわけです。


「空が青いっていうのを例えば「空が青い」っていうのんじゃなくて、自分のアートフォームに落とし込んで「空が青い」って伝えることによって伝わるみたいなのがカッコいいし、と思うし、それが遠回りでもぜんぜんかまわねぇ、みたいな」


だからみんな小説を書いたり、映画を撮ったり、音楽を作るんじゃないですか。それにしたってダサくはないですか。ライムを踏んでるからって言うのは百も承知ですが、にしても。ただこういった詩が好きな人が居ることも分かります。その良さが分からないのはもうそれはすべてぼくの問題。性格がひん曲がっている証。もっと素直になりたい。日々加速する新時代。

全く関係の無い話ですが、学生時代バイトしていた先で勝手にCDをかけて良いというので勝手にCDを持ち込んでバイト中かけてました。たまたま小沢健二の『LIFE』というアルバムをかけていたところ6曲目にさししかかってなんじゃこらみたいな顔をしていたぼくより年下のバイト仲間が「今夜はブギーバック」を聴いてびっくりしてました。カバーと知らなかったみたい。日々加速する新時代。

「今夜はブギーバック」―kreva(Youtube)


「今夜はブギーバック」―HALCALI(Youtube)


そのバイト仲間はkrevaのカバーで知ってたのです。なんで10年以上前のポップスのラップソングがkrevaとかHALCALIにカバーされるかといえば、それが単なる音だけではないからです。別の人が歌いなおす意味があるからです。歌いたいと思える強度を持った詩だからです。それは決して「ディストーションギターに埋もれてて言ってるから言えるみたいな」詩ではない分けです。これが詩なんだい。日々加速する新時代。


私的な感覚を越えたところを描く”大きな”ラップが苦手なのを再認識しました。なんだろうか、ネガティブな言葉しか出てきません。良い悪いじゃなくて、好き嫌いでしか判断が出来ないのだと思います。Kjが問題視するインスタントミュージックとの根本的な違いはぼくにはよく分かりません。てか、要は苦手なのです。来週の最終回が楽しみでもあります。来週こそは楽しみたい。日々加速する新時代。

相棒は変わるか

2009-09-18 | 休み
政権交代が行われました。ビデオジャーナリストの神保哲生さんなどの取材を見ると、民主党政権はかなりドラスティックに北欧・欧米的な社会システム(宮台さんが言うような”分厚い”社会)に変革しようとしているみたいですが、日本がどう変わるかよりもテレビドラマ「相棒」がどのように変化するのかの方が気になります。


例えば、「相棒」の中でしばしば槍玉に挙げてきた取調べの可視化・録画録音についても現国家公安委員長は進めるとしています。少し違いますが「編集された殺人」では検察が証人の証言を恣意的に編集したVTRが殺人の原因を作ってしまったという事件でしたし、「冤罪」というエピソードでは可視化されていない中での長時間に渡る取調べでの”自供”がエピソードの鍵となっていました。

物語の駆動装置として密室の取調べが用いられていましたが、これが無くなってしまう(現実的には良いことと思いますが)公算が高いです。ちなみに今回の公安委員長は同時に司法取引やおとり捜査の実施にまで言及しているので、これからは密室の取調べではなく司法取引やおとり捜査を物語の駆動装置として使われるかもしれません。それは楽しみでもあります。

ほかにも外務省の事務次官が与党議員を貶めようとする「悪女の証明」も事務次官会議が廃止されて、相対的に事務次官の権限が減じられ諸外国のように単なる事務機関になった場合、どうなるのか。各省庁の官僚が暴走し殺人まで行ってしまう「サザンカの咲く頃」のようなエピソードもリアリティとして難しくなるかも知れません。

で、書いていて気が付いたのですが亀山夫人は結婚後大手新聞社を退社し、フリージャーナリストになった設定でしたが、フリー転向後も各記者クラブで取材をしていたような。元の新聞社からの依頼というのもあった気もしますが、依頼とは言え仮にもフリーのジャーナリストが記者クラブ内で取材なんて出来るのかどうなのか。それも記者クラブが解放されればどうでも良い疑問になります。


個人的にはシーズンを重ねるたびに、出演者が豪華になっていくのに比例して物語の強度が弱まって行ってしまっていると感じているので、こういう物語の動力源になりそうな問題点や不明点がなくなってしまうのは残念です。まぁ無くならない部分も多そうですが。