NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

パスポートを更新しに行かなきゃと思える映画、LIFE!

2014-03-24 | 授業
リトルランボーズ
日本のポスターには「生きている間に、生まれ変わろう」とある。


アメリカの『LIFE』誌の写真管理部門という地味な部署に勤めるウォルター・ミティは私生活も仕事も冴えない。

父親が17歳の時に亡くなった為、家族の大黒柱として家計を支えてきた。42歳を迎えた現在も結婚はせず、母親ばかりか妹の金銭的な面倒もみている。気になる同僚の女性はいるが声をかけることも出来ず、その彼女がお見合いサイトに登録したと聞き、自らもそのお見合いサイトに登録したが彼女にアプローチ出来ない。それどころかお見合いサイトのプロフィール欄のこれまでの体験談の項目を埋めることが出来ずに、サイトの機能が使用できない不具合まで起きている。しかもしばしば妄想にトリップする。

私生活も仕事も冴えない、そんなある日事件が起きる。『ライフ』誌が買収され、紙媒体での刊行の終了が決定。世界を駆け回る著名写真家、ショーンが紙媒体の最終号の表紙を飾る写真のネガを送ってきてくれたが、ウォルターはそのネガの1個を紛失(?)してしまった。会社中探してもネガは見つからない。写真家のショーンは世界中を駆け回っているため定住しておらず、携帯電話も持っていないため居場所が分からない。考えあぐねたウォルターは、『LIFE』誌のスローガンに感化され、ネガを貰うべくショーンを探しに外の世界へと旅立つ。必要に迫られて外の世界に旅立つことになったウォルターだが、この一歩によりウォルターは変わっていく。


To see the world.
Things dangerous to come to.
To see behind walls.
To draw closer.
To find each other.
And to feel.
That is the purpose of life.



悪く言えば、昔ながらの典型的な映画といえる。問題を抱える人物(そしてその問題は大抵恋愛問題だ)があるきっかけ、イニシエーションにより自分を変える。自分を変えたことにより問題が解決していく。そしてハッピーエンド。視野の狭い人に、臆病な人に、自分以外に興味のない人に、人間関係が希薄な人に、それは間違っている!と言葉で言うのは容易いが、果たしてそれを心からその言葉の意味を理解できるだろうか、というか、それはぼくなのだけれど、理解することは出来ない。でもそれを映像で、物語で見せてくれたら、それは多少は違うかもしれない。

映像に関しては、ウェス・アンダーソン監督からの影響を隠さない主演も務めるベン・スティラーは『LIFE!』をミニマルで可愛い映画に仕上げた。多用される真上からの俯瞰ショット。ウォルターが小さな存在であることを示すためか、ロングのショットが多用される。(そしてウォルターを画面のサイドに寄せるのだ。)フラッシュバックなどもなく、時間軸どおりにストレートに映画が展開されていく。実に全うな映画だともう。ど直球に全うな映画だ。



出色はやはりウォルターが旅立ちの一歩を踏み出すときに流れる、デヴィッド・ボウイの『Space Oddity』の使い方だろう。すげーよ、スティラー監督。つか、『トロピックサンダー』とかを撮ってる監督さんですよね?マジか!というほどに、可愛くて素敵な映画になっている。そして何より昔ながらの映画的な教訓が無理なくしっかり入っている。ラストは予想の範囲内だけれど、ベタでもとっても素晴らしく、美しいラストだと思う。


今月中にパスポートを更新しにいこう。世界を見よう。危険でも立ち向かおう。壁の裏側をのぞいてみよう。もっと近づこう。互いを知ろう。そして感じよう。それが人生の目的だから。


諦めることについて考える。『アナと雪の女王』

2014-03-21 | 授業
リトルランボーズ

アレンデール王国の二人のプリンセス、姉のエルサと妹のアナ。とても仲の良い姉妹だったが、生まれもった氷の魔法の力でエルサがアナを傷付けてしまう。そのことがきっかけとなりエルサは自らの魔法の力で周囲を傷付けまいと、城の一室に閉じこもり文字通り心を閉ざしてしまう。そんなエルサが大人になり、女王となる日に再び自らの魔法の力でアナや周囲の人々を傷付けてしまい、一人北の山に逃げ込んでしまった

魔法の力は『シザーハンズ』のはさみの手よろしく、もちろんある種のメタファーであり、人間が誰しも持っている周囲を傷付けてしまう性質や行動の象徴である。それを本作では氷の魔法という形で描いている。本作でぼくがもっとも心を惹かれたのはやはりこの表現であり、アナや周りの人々を傷付けてしまったエルサが北の山に逃げ込んだ後の描写である。


『Let it Go』performed by Idiana Menzel

CMやテレビで本作が紹介される時に一番に紹介される本作のメインナンバー、『Let it go』がかかる。ゴージャスなメロディーとパワフルなヴォーカル。一見するとなんとも前向きな歌のように聞こえるが、よくよく歌詞を聴くと、必ずしも前向きなことばかり歌っているわけではない。そもそもこの歌詞は周囲を傷付け、「化け物!」とのそしりを受け、自分の国を追われ、逃げてきた女王エルサの心情を歌ったナンバーであるからだ。


The snow glows white on the mountain tonight
Not a footprint to be seen.
A kingdom of isolation,
and it looks like I'm the Queen
The wind is howling like this swirling storm inside
Couldn't keep it in;
Heaven knows I've tried


今夜、雪が山を白く染め上げる。
雪の上の足跡さえも見えない。
孤独の王国、私はその国の女王のようだ。
風は心の中で巻き起こる嵐のように吹いている。
もうそれを押さえつけることは出来ない。
天のみがそのことを知っている。


Don't let them in,
Don't let them see
Be the good girl you always have to be
Conceal, don't feel,
don't let them know
Well now they know


誰も受け入れない。
誰にも見せない。
良い子であるために、いつも隠しておかなければならない。
悟られたり、知られてはならなかった。
でもそれは知られてしまったんだ。


Let it go, let it go
Can't hold it back anymore


もういいだろう、もういいだろう。
これ以上過去にこだわるのはやめよう。


Let it go, let it go
Turn away and slam the door
I don't care
what they're going to say
Let the storm rage on.
The cold never bothered me anyway


もういいだろう、もういいだろう。
みんな追い払って、ドアを閉ざそう。
周りの言うことなど気にしない。
嵐よ、吹け。
氷の魔法の力はもはや取るに足らないものだ。


It's funny how some distance
Makes everything seem small
And the fears that once controlled me
Can't get to me at all


距離をとることですべてのものが些細なことに見えるなんて面白い。
かつては恐れが私を支配していたが、
もはや恐れは私を支配できない。


It's time to see what I can do
To test the limits and break through
No right, no wrong, no rules for me,
I'm free!


自分が出来ることの限界を試し、それを打ち破る時だ。
正しいことも、正しくないことも、ルールも私には無いのだ。
私は自由だ!


Let it go, let it go
I am one with the wind and sky
Let it go, let it go
You'll never see me cry
Here I stand
And here I'll stay
Let the storm rage on


もういいだろう、もういいだろう。
私は一人風と空とともにある。
もういいだろう、もういいだろう。
私が泣くことなどもう無いだろう。
私はここに立っている。
そしてここにとどまるのだ。
嵐よ吹け。


My power flurries through the air into the ground
My soul is spiraling in frozen fractals all around
And one thought crystallizes like an icy blast
I'm never going back, the past is in the past


私の力は空気を通じて大地を震わせる。
私の魂は辺り一面の氷の結晶の中にもぐりこむ。
私の思いは吹雪のように結晶化される。
決して私は振り返らない。過去は過去なのだ。


Let it go, let it go
And I'll rise like the break of dawn
Let it go, let it go
That perfect girl is gone
Here I stand
In the light of day
Let the storm rage on


もういいだろう、もういいだろう。
夜明けのように私は立ち上がるだろう。
もういいだろう、もういいだろう。
完璧な少女はもういない。
日の光の中で私はここに立っている。
嵐よ、吹け。


The cold never bothered me anyway!

氷の魔法の力はもはや取るに足らないものだ。
英詩は下記より参照。
http://www.metrolyrics.com/let-it-go-lyrics-idina-menzel.html


端的に言えば、周りなど気にしない。周りの言うことなど気にしない。周りと距離を置こう。そうすれば自由になれるのだと歌い上げる。それはある種の逃げであり、一面的には実に後ろ向きだ。後ろ向きだが、自分の能力に素直になったエルサはそれまでの貞淑な女王から、肉感的でセクシーな女性へと変貌を遂げる。それは諦念だ。周りに受け入れられようとしたり、合わせたりするのを諦めた、エルサの諦念。

映画を観るような気分でなく、ひどく落ち込んだままこの映画を観だしたが、このシークエンス、このナンバーになってから、一気に心が楽になった。諦めることは、こだわりを捨てることと同義だ。それは今まで囚われてきたものとの決別だ。もはやそれは過去であり、現在とは関係が無くなる。現在と関係の無いものをどうして気にするというのだろう。エルサではないけれど、少しは心が救われた。軽くなった。そんなことを考えた。

『Let it go』が後半序盤と対になって再び歌われるものだと思っていたので、勝手に肩透かしの気分だったけれど。

華麗なるギャツビーを観て、今更思うこと。

2014-03-15 | 休み
old sport
Old Sport.



バズ・ラーマン監督はあんまり好きじゃない。本作にしても原作の舞台であったJAZZ AGE(本作に宝飾品で協力をしたティファニーは『華麗なるギャツビー』とのコラボ商品で「JAZZ AGE」という表現を使っていた。)を今の時代用にと、JAY-Zに依頼しHIP-HOPに変えてしまった。しかも文芸作品の映画化作品なのに何故か3D映画というまがまがしさ。ことほど作用に強烈なアレンジをするという前評判を聞いて、正直期待していなかったのだけれっど。

主人公は、”傍観者”であり”プレイヤー”に成れないトム。トムは原作者、スコット・フィッツ・ジェラルド自身がモデル。そんな傍観者であるトムのいとこ、既婚者デイジーの暮らす豪邸の湖をはさんだ対岸の大豪邸では謎の人物が毎夜招かれてもいないのに明りに吸い寄せられて大勢の人々がパーティーを繰り広げている。そんな中トムにその謎のパーティーの主催者から正式な招待を受ける。その主催者こそがギャッツビーだった。彼はデイジーの昔の恋人だという。

ギャツビーがトムを呼び出したのには訳があった。トムのいとこであり、ギャツビーの忘れがたい昔の恋人であるデイジーとの中を取りもって欲しい。それがギャツビーのトムへの願いだった。トムはギャツビーの願いを受け入れ、デイジーとの邂逅をかなえる。しかしバズ・ラーマン監督がインタビューで散々語っているように、ギャツビーはイギリスにとって変わって世界の領主となったアメリカであり、デイジーはそのアメリカが追い求めた富の象徴。つまるところ、デイジーはファムファタールであり、決して手には入らない、欲望の象徴でしかない。


欲望の象徴だからこそ、手に入らない。デイジーを手にいれるには彼女が欲する富が必要だ。そのためにはギャツビーは何だってした。でも結局、ギャツビーはデイジーを手にはいられなかった。本当に欲しいものは手に入らない。そういうことなのかもしれない。



と、公開当時ここまで書いては見たものの、ちょっと別のことを考えてみてしまう。バズ・ラーマン監督の見解でも原作の文学的な評価においても、ギャツビーが追い求めるデイジーはアメリカが追い求めた富の象徴、手に入れられないものとして描かれる。でも、仮にそうではなかったとしたら、どうなんだろうかと考える。ギャツビーは以前にデイジーに振られた。ギャツビーはその理由が自分に金が無いからだと考え、違法な手段を用いても金を稼いだ。その金でデイジーの頬を叩いてなびかせてみたものの結局デイジーはギャツビーの元を離れていく。

でもそれって本当にデイジーのせいなのか?デイジーはアメリカの傲慢さの行き着くところまで言った欲望の象徴だからなのか?それって男性的な解釈でしかないんじゃないのかって考える。ギャッツビーは確かに以前の自分を捨て、新たな自分となった。でもそれって本当に変わったということなのか。巨万の富を得ただけなのでは?劇中で描かれるギャツビーは単純に金に飽かせてデイジーを手に入れようとしただけなんじゃないだろうか。二村ヒトシが言うところのインチキ自己肯定なのではないかと思う。

だからこそ結局ギャツビーはデイジーに振られたときと変わっていなかった。だからこそ巨万の富を得たところで再びデイジーに振られてしまったんじゃなかろうか。