院長の気まぐれ日誌

仕事のこと、私生活のこと、気になることなど不定期に書いて行きたいと思っています^^

人に寄り添う

2018年06月02日 | 日記
先日、ご紹介で高齢のおやじさんがやってきた。

一年近く寝込んでいたため、足腰に力が入らず、気力も衰え、歩くこともままならない様子。

それに加え、目も見づらく耳も聞こえづらかった。

本当は、整体院に来る状態ではない。
でも、家族は病院ではらちが明かないと必死だった。

以前、義父も、毎日のように自転車で利根川や江戸川に釣りに行ってた。
ある日、捻挫をしてしまってから自転車にも乗れず、しまいには気力も衰え、病気がちになり亡くなったのを想い出した。

あの時、わたしは何もするこもできなかった。
ただ、病院の診察を見守ることしかできなかった。

義父も、「子供たちが独立したのでもういい」とつぶやいていた。

無力さを感じた。

一見して、うちのメイン矯正ができる状態ではなかったので、家族と少し離して椅子に座らせた。

本人に、気力、生きる希望がないと体は衰弱するばかりだ。

気力が出なければ、どうするか。

答えは簡単、本人の気力を目覚めさせればいいだけのこと。

おやじさんの肩や背中を触ると、邪気だらけだった。

腕もお腹も、いたる所が邪気だらけだった。
それもそのはず、体調が悪く生きる希望がないのだから、邪気に支配されるのは当然のこと。

本人は、この先どうなるかの心配さを通り越して、ただ気力が出ないと心から訴えかけてた。

自宅で生活している家族も、その想いは届いていない。

そりゃそうです、自分の苦しみは、身内でも解る人は少ない。

おやじさんの左手をにぎり、言葉で励ましながら、意識の言霊で心にとどくように訴えかけた。
おやじさんの手は、長年の職人の手で、親指と人差し指だけだった。
その手を、両手で摩りながら意識で伝えた。

人はだれでも、必要としてくれる人の為に働くもの。

今、落ち込んで将来が不安でならない人。
何をやっても、失敗の連続で立ち直れない人。
生きる希望も持てない人。

いろんな人がいるけど、今は前進できないでしょう。
希望が持てないのだから、当然ですよ。
落ち込んでるのだから。

でも、今、落ち込んでる人から、新たに助けてほしい人が、手を差し伸べてくれるのを待ってる。

そんなバカなと思いかもしれないけど、実際そうなんだよ。

おやじさんが、帰られる際、気力が回復し、家族との会話も普段通り、一人で立ち、靴も見えづらかったものが自分で履き、スタスタと一人でドアを開け、帰って行く姿に家族は驚いた。

その後、娘さんからの連絡で、あの日の夕方から、元気だった頃のお父さんに戻って涙したと話して来た。

あの時、義父を助けられなかった自責があったから、おやじさんを励ましただけのこと。
おやじさんの心を開かせただけ。
おやじさん自身が、一瞬で生きる希望をみつけただけ。

人に寄り添うってのは、そんなことなんだよ。
誰かを、本気で助けたい、自分に不満があれば本気で助けられはしない。
きれいごとで、人に親切にって、そんなものは誰でも言える。

今日は、少し乱暴な書き方でしたが、アメブロ様式で書いてみました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 引き寄せはイメージで | トップ | 人に寄りそう つづき »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事