礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「印税」という言葉は、明治書院が初めて使った

2014-04-06 08:38:49 | 日記

◎「印税」という言葉は、明治書院が初めて使った

 先日、『明治書院七十年の歩み』という冊子を入手した。表紙に、「創立七十周年記念」および「昭和四十一年五月七日」という文字がある。
 冒頭に「七十年の歩み」という四ページ分の文章があり、その後は、出版総目録。奥付はない。

 本日は、この「七十年の歩み」のうちの一部(約二ページ分)を紹介してみよう。

 創立 明冶書院は、三樹一平〈ミキ・イッペイ〉を初代社長として、鈴木友三郎の協力により、日清戦争を境いにわが国が近代国家として脱皮しようとする時にあたる明冶二十九年一月に創立された。明治初年以来の欧化思想にようやく反省の色が見えはじめ、わが国の伝統を再評価しようとする運動の波に乗って明冶書院が誕生したということができる。
 最初の事務所を神田三河町〈カンダミカワチョウ〉に置き、落合直文〈オチアイ・ナオブミ〉が、門下の与謝野寛・内海月杖〈ウツミ・ゲツジョウ〉らの錚々たるメンバーを引き連れて編集陣を張り、まず与謝野寛の処女歌集『東西南北』をはじめ、『大日本大文典』(落合直文)、『中等国文読本』(落合直文)などを刊行した。これらは長く名著として読まれたものであり、ここにすでに、国漢の出版社あるいは教科書の出版社としての明治書院の基礎が固められ、その方向もまた決定されたということができる。なお、「明治書院」の命名は、落合直文によるものであるが、「書院」を付して出版社名を表わしたのはこれが嚆矢であるといわれる。
 変遷 創立翌年の明治三十年には、現在の神田錦町〈カンダニシキチョウ〉に土蔵造りの社屋を新築し、落合の『中等国文読本』に続いて、簡野道明の漢文教科書を発行して当時の国漢教育界を風靡するとともに、それらと並んで和漢古典の注釈書を続々刊行して好評を博し、出版界にゆるぎない地歩を占めた。『東西南北』に続いて出た『天地玄黄』(与謝野寛)も、『東西南北』に劣らず当時の青年男女の血を湧かせたものである。また、出版界ではじめて女子の漢文教科書を作ったり、教科書の指導資料を作ったり、「印税」という名称を創始したりするなど、明治書院は当時の出版界をリードした観がある。
 大正三年、株式組織に改め、引き続き国漢・教科書の出版社として数々の書籍・教科書を刊行、それらのうち、今日にいたるまで読まれているものも少なくない。
 大正十二年、関東大震災により社屋・倉庫が全焼し、しばらく仮り住まいののち、昭和七年、地下一階地上三階の鉄筋の社屋を新築した。これが現在の社屋である。今でこそ、周囲の建築物の中にあって、小さく古めかしく見えるが、当時にあっては、四界を圧する堂々たるものであり、モダーンなものであった。その後、徳富蘇峰の民友社、高島米峰の丙午出版社を吸収して、歴史・宗教・思想などにも出版領域を拡げた。
 戦時中は出版統制で打撃を受けたが、社屋は奇蹟的に戦火をまぬがれ、七十年の歴史を今だに神田の一角に留めている。この間、出版物については、その主なものだけでも枚挙に暇がないほどなので目録にゆずり、ここでは割愛したいと思う。【以下略】

 若干、注釈する。与謝野寛の処女詩集は、『東西南北』(明治書院、一八九六)であるが、与謝野寛の処女出版は、霊美玉廼舎主人〈クシミタマノヤシュジン〉の筆名で書いた小説『みなし児』(山口県積善会、一八九二)である。
 この冊子が出された当時、明治書院は、まだ、千代田区神田錦町一丁目一六番地の旧社屋で営業していた。旧社屋が戦災に遭わなかったのは、付近にニコライ堂があり、この地域が空爆の対象外とされていたからであろう。その後、明治書院は新宿区に移転し、旧社屋は残っていない。ただし、旧社屋の写真は、インターネット上で見ることができる。

 

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