礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

南北朝時代の史実は大日本史編輯の時と異同がない

2020-03-26 02:32:31 | コラムと名言

◎南北朝時代の史実は大日本史編輯の時と異同がない

 菊池謙二郎の論文「南北朝対等論を駁す」の紹介に戻る。この論文は、『日本及日本人』第五百五十四号(一九一一年三月一五日)「南北正閏論」特集に載っていたもので、すでに本論の部分は紹介済みである。本日以降は、その「余論」を紹介する。

   余  論
 対等論者の没常識、歴史教科書編纂の誠意、澤柳氏の無責任。 
▲南北朝の間に正閏の区別を立つるに就いて学者の間に異論のあることは今に始まつたことではない。明治三十二年〔一八九九〕と覚ゆるが重野〔安繹〕博士が大日本史の三大特筆に一撃を試みられた時に南北両朝は対等であるといふことを発表せられた。僕は当時之に反駁を加へた。其時博士はいづれ答弁するといふ手紙を寄せられたが終に説明の労を執られすに了つた。重野博死の流を汲む所の史料編纂掛〈ガカリ〉中に博士と同意見を有して居らるゝ学者の多いのは疑なき事であるが甞て〈カツテ〉其意見を公表せられたことは無いやうに思ふ。昨年〔一九一〇〕十二月喜田〔貞吉〕博士が文部省開催の講習会に於て娓々〈ビビ〉数千言を費して対等論を唱道せられたといふことを聞いたから多分一大事実を発見したのであらう、北朝を正統と認むるに足るべき確証か、南朝を正統とする論拠を覆へすべき事実か何かを発見したのであらう。かう想うて不取敢〈トリアエズ〉或人から其講義筆記といふものを借覧した所が、驚くべし新発見の事実といふものは少しもないのである。其後此問題が大分やかましく為つて〈ナッテ〉諸大家の意見が新聞紙上に続々現はれた、注意して読んで見ても新発見の事実といふものを挙げて居るのは一つも見当らぬ。つまり南北朝時代の史実は大日本史が編修せられた時と少しも異同が無いのである。唯一つ大日本史編修時代に発見せられなかつた史料がある。それは光厳院別記で、之に拠ると後醍醐天皇より光厳院に剣と璽とを御譲与になつたとある。対等論者は鬼の首でも取つたやうに喜んで神器所在論より観ても光厳院は立派に天皇の資格があると言うて居る。けれとも之と反対に増鏡には後醍醐天皇が隠岐〈オキ〉へ璽の箱を携帯せられたとある。対等論者の錚々たる久米〔邦武〕博士さへも『いづれを是とすべきやは猶研究すべき余地あり』と言つて居る。よしや後醍醐天皇が北條氏に逼られ〈セマラレ〉剣璽を御渡しになつたとしても天皇は巡狩還幸の儀を用ひて重祚〈チョウソ〉の礼を用ひられず従て光厳院の在位を御承認なく唯〈タダ〉太子が政を摂せられたこととせられたのであるから光厳院はどうしても天皇と認め奉ることは出来ぬのである。此の如く南北朝時代の史実は大日本史編輯の時と今日と毫も〈ゴウモ〉異同がない。史実より見れば南朝は正位で北朝は閏位と認めねばならぬ。即ち後醍醐天皇はもともと正統の天子で、甞て北朝の天子に正当に位を譲られたことはなく後村上天皇に位を伝へさせられたのである。之に反して北朝の始祖と称せらるゝ光厳院は右申す通りであれば、其院宣〈インゼン〉に由りて践祚せられた光明院の御資格ば天皇としてはよほど欠如せるものと認めねばならぬ。崇光院も然りである。殊に後光厳院に至つては院宣もなく勿論神器もなく践祚せられたので、かゝる例は古来我邦になきことである。対等論者は是等の史実を打消すに足るべき事実を発見して居らぬのである。然れば彼等は何故に対等論を唱ふるかといふに要するに正閏論者と其着眼点を異にし見解を異にして居るからである。彼等は事実事実といふけれども決して史実に根拠を据えたる議論をして居らぬ。大要左の如き見解より起つた説に過ぎないと思ふ。【以下、次回】

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