礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

米軍捕虜を見たいという見物人が集まってきた

2024-01-14 00:20:36 | コラムと名言

◎米軍捕虜を見たいという見物人が集まってきた

 昨年12月の21日から26日にかけて、上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、1972)の第三章「戦渦」から、「浜松地区初空襲」の節を紹介した。
 本日は、同書同章から、「B二九撃墜と塔乗員護送」の節を紹介したい。紹介するのは、同節の全文である。

   B二九撃墜と塔乗員護送

 昭和二十年〔1945〕五月五日、内地第一総軍司令官杉山〔元〕元帥が浜松地区を初度巡視された。浜松付近の各部隊長は全員飛行隊本部将校集会所に集合して訓示をうけることになっていた。
 杉山元帥の一行は、構築陣地を視察しつつ自動車で浜松飛行隊(飛行学校)に到着して、各部隊長に訓示された。
 その訓示内容は、愈々本土決戦も刻々に迫っており、浜松地区は敵の有力なる上陸地点と予想されるので、就任直後に現地を視察し、配備と陣容を確かめ、親しく諸官と面接し、敵上陸軍を必滅する決意を要望するために参った、幸い諸官の勇姿に接して意を強くするものである。
とあいさつされたが、現在の戦況については、あまり詳しいことを語らなかった。
 地上部隊の師団長と飛行部隊の兵団長の、状況報告が終って、全員が食堂に集まって、昼食の会食に入ったとき、空襲警報が発令された。
 防空情報は敵B二九の編隊が、伊勢湾より浜松方面に進行中とのことであった。
 情報放送の終わらぬうちに高射砲の砲声が轟き、白い飛行雲を曳いた敵機の編隊が、名古屋方面から進んで来て、天竜川河口付近から太平洋上に向って行く。
「全員待避」となって、集会所前の壕に入ったが、私は司令官護衛の意味から、同司令官と同じ壕に待避した。
 爆撃音がしないので、軍司令官に随って外に出て、次々と飛翔して来る敵機の編隊を双眼鏡を出して見つめていた。
 天竜川河口から太平洋上に向う編隊のうちの一機が、ピカリと火を吹き、白煙がにわかに大きくなるのを見た。
 敵機が去って司令官を見送り、そのまま飛行隊に残っていると、分隊からの電話で「敵一機が掛塚〈カケツカ〉海上に撃墜され、搭乗員六名を漁船が逮捕し、掛塚小学校の部隊に収容している」という報告である。
 直ちに飛行隊長に連絡し、敵搭乗員を収容するため、飛行隊のバス一台を借用して分隊に戻り、自分は報告のため分隊に残って、大場准尉以下の憲兵をバスに乗せて現場に急行せしめた。
 やがて捕虜は全員飛行隊バスにて分隊に連行されてきた。
 捕慮は海上にて漁師に逮捕される際に相当痛めつけられ、陸上部隊でもやられたらしく、顔面が赤く腫れあがっていた。
 とりあえず道場に入れて監視させ、静岡地区憲兵隊本部を経て名古屋の中部憲兵司令部に報告し、その指示によって、捕虜は浜松で取調べることなく、直ちに中部軍司令部に押送〈オウソウ〉せよ、との命令であった。
 分隊では名古屋に押送する準備のため、簡単に取調べたところ、いづれも十八、九歳のハイスクールを出たばかりの若者であった。
 空腹を訴えるので、パンとミルクを与えた。ところが分隊の周囲には、米軍捕虜がつかまったというので、ひとめ見たいという見物人が集まって来て、構内から道路まで群集が山をなすという状態であった。
 亀山町の分隊の近くに住む白髪の老人で、分隊員と顔知りの人が、分隊長室に入って来て
「わたくしの伜〈セガレ〉は、航空少佐として南冥〈ナンメイ〉で戦死している。伜の仇〈カタキ〉うちに一度でよいから、あの捕虜を撲ぐらせてくれ」
 と嘆願した。
 外の群衆も、窓越しにこれを見て
「おれたちにも撲ぐらせろ」
 とやじ馬連中とともに騒ぎ立てるという状態が巻き起こった。
 私は、爺さんと、群衆にも聞えるように
「なるほど、皆さんは撲ぐって気も晴れるかも知れぬが、もし貴方の息子が、あのように捕えられて、群衆から寄ってたかってたたかれたとしたらどうですか?
 自分は憲兵分隊長として、あのように捕慮となってしまった者は、国際法上からも、皆さんに撲ぐらせるようなことはできない。捕えるために格闘するなら別として、あんなに打ちしおれている者を撲ぐれますか? みなさんは、家を焼かれ、肉親を殺されて憎いかも知れませんが、よく見て下さいみんな二十才足らずの少年ですぞ?」 
 と大声でなだめるのであった。爺さんが先ず
「大人気ないことを申しました」
 と頭をさげ、周囲もようやくおさまった。
 やがて捕慮は、目隠〈メカクシ〉を着け捕縄〈ホジョウ〉を打って、名古屋に向け浜松駅から護送することになった。捕虜一名に憲兵二名を着け、左右を取り固むようにして分隊を出ると、群衆は捕慮をめがけて、唾をはきかける。唾が飛んで押送憲兵の頬にかかる。自動車で駅に着きホームでも同様のありさまであった。〈203~206ページ〉

 冒頭に「内地第一総軍」とある。第一総軍は、本土決戦に備えて、1945年(昭和20)4月8日に編成された。初代の指令官は、杉山元〈ゲン〉元帥であった。

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