◎現代の労働者における「自己保全的」対応
2014年8月12日に私は、平凡社から『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書)という本を出していただいた。
日本人の「働きすぎ」という問題に対しては、そのあとも関心を持ち続け、2015年1月16日の当ブログに、〝戦中の職工の「自己保全的」対応とは〟という記事を掲載した。数日前、同記事を読み直してみたところ、その最後のパラグラフは、次のようになっていた。
労働力の再生産を労働者に保証する機能が不全になっている点では、戦中も今日もまったく変わらない。そうした状況においては、労働者は、みずからの主体的な意思によって、みずから「自己保全的」な対応を案出する以外には、生き残る道はないだろう。
ここで私は、「労働力の再生産」という言葉を使っている。このときは、あくまでも、「労働者個人における労働力の再生産」という意味で、この言葉を使ったのである。しかし、それから九年を経た今、私は、「労働力の再生産」という言葉を、「拡張した意味」で用いる必要がある、と考えている。すなわち、「労働者階級における労働者そのもの再生産」という意味で。
そうした観点に立った上て、上記のパラグラフを書き替えると、次のようになるだろう。
「労働力の再生産を労働者に保証する機能」が不全になっている点では、戦中も今日もまったく変わらない。しかし、今日の日本において、ヨリ深刻な問題は、「労働者階級における労働者そのものの再生産を労働者階級に保証する機能」が不全になっている、という問題ではないのか。そうした問題状況においては、労働者は、みずからの主体的な意思によって、非婚、少子といった形で「自己保全」を図ろうとする。そうした対応は、個々の労働者にとっては「自己保全的」かもしれないが、労働者階級にとっては「自己保全的」でない。労働者階級が「生き残る道」にはならない。労働者階級が生き残れなければ、経営層(資本家階級)もまた生き残ることはできない。問題が深刻である所以である。
2015年1月16日の記事を、併せて参照していただければ幸いである。