◎雲るは曇る、一人言は独言、浜栗は蛤と書かなければならない
松坂忠則著『国字問題の本質』(弘文堂、一九四二)から、第一章「文字から見た現代文化」の第二節「漢字と国民教育」を紹介している。
本日は、その四回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、次のように続く。*以下は、原文では、小さい活字で組まれている。
漢字は、元来シナの言語にあてはめて作ったものであるために、これを日本語にあてはめることは、もともとムリである。このムリのために、理論的なあるいは日本的な物のかんがえ方が、片っぱしから、こわされてしまう。「オドリ」も「オドル」も「踊」の字で書かれるのに、「空が雲る」と書くことはゆるされない。「ヒトリ」は「一人」と書かせ、「ヒトリゴト」は「一人言」でなくて「独言」だとゆう。しかるに「ヒトタピ」は「一度」であって「フタタビ」は「二度」ならぬ「再」であるとゆう。夏のアツサも、ふろのアツサも日本語では同一のコトバであるのに、これを「暑」と「熱」に書き分けさせ、反対に「ミズかラ」と「オノズカラ」は日本語では別のものであるのに、どちらも「自ら」になり、「ホソイ」と「コマカイ」もまた「細い」となる。
こうした非論理的な文字づかいは、すべて、日本語を書くのに、シナ語で書かせ、さらにこれを日本語に直して読ませるところにゲンインするのである。日本語を漢字で読み書きするとゆうことは、「イヌ」をdogと書き、catを「ネコ」と読むのと同じシカケなのである。
「ハマグリ」はハマベのクリと見立てた日本語であるのに「浜栗」と書いてはらない。理由は、シナ人がこれをハマのクリとは見立てすに「蛤」なる字を作ったからとゆうのである。反対に、シナ人は、わらいゴエの「ハハハ」を写すのに、そのままの発音の文字たる「呵」の字を當てた。「哄笑」の「哄」も同様である。(シナ現代音では呵=Hê ; 哄=Hung )日本人がこれを、わらいゴエとはにもつかぬ「カ」だの「コー」だのと通むのに、なおかつ「呵々大笑」だの「哄笑」だのと書いている。このような、自然の音から来た文字の日本における食いちがいは、実に多い。まして字源のセンサクとか、あるいは「会稽の恥」とか「四面楚歌」とかのいわく付きのコトバは、ことごとくシナ文化、シナの国民性の中からうまれたものである。
日本人には、えて、シナ的なものを「東洋的」と言って済ませる風があるが、これは十分にいましめなければならない。大体、あの漢字のこみ入った字画とゆうものは、いちばん非日本的な存在である。シナ人は家屋でもツクエでもイスでも、ところきらわすに一面にホリモノをほどこし、真赤にぬりつぶしたりベタベタに金パクをおいたりして喜ぶ国民性である。日本人は白木のナゲシと自然木のトコバシラを愛する国民である。私は、しいてどちらが良いと言うのではない。なるべく、こみ入ったように作った漢字とゆうものが、いかに日本にとってふさわしからぬものであるかを言っているのである。国民文化の自主性が、すでに教育において、漢字のために、いかに虫ばまれているかを言っているのである。たとえば、次のような文字が、はたして日本的な存在と言えるものかどうか、心をむなしくして見ていただきたい。
髑髏 憂鬱 瞿鑠 齷齪 顰蹙 癲癇 躊躇
そしてさらに、このような文字が、自然木のハシラのそばにブラさがつている図や、白木のナゲシにかかげられている図が、はたして調和のある文化であると言えるものかを、反省してみていただきたい。
齷齪といえば、このコトバは「アクサク」「アクセク」「アクソク」など、いろいろに読まれているのも漢字教育のワズライの一面をしめしているが、さらに、この書き方が、齷齪なのか、握齪なのか、握齱なのか、握促なのか、字引によっていろいろなのが出てくる。だから、どれを書いてもよいらしい。ところが、「下熱剤」は「解熱剤」でなければならず、「妻君」は「細君」と書かなければならず、「准尉」と「準禁治産」とで「十」の字の使い分けをしなければならない。こんなことが、どんなに頭のムダづかいであるかは、心をおちつけてかんがえてみたら、だれにも、わからぬハズはあるまい。
【一行アキ】
*西洋諸国の初等教育における各学科目の時間配当を見てみる時、わが国の初等教育が漢字のためにいかに多くのムダをしているかがハッキリわかる。これについては、イシグロ ヨシミ氏(石黒修)の著「日本語の問題」〔修文館、一九四〇〕に、非常にくわしい数字がでている。イタリアでは四年から「古典」を教えている。ドイツは一週六―九時間の国語時間があるだけ、あれほど綴字のやかましいフランスは、「書き方」は二、三年二・五時間、六、七年は四分の三時間に過ぎない。
この文章において、松坂忠則が採用している仮名づかい、漢字表記は、当時としては、きわめて先進的なものでああった。「作った」、「かんがえ方」、「だとゆう」、「しめしている」、「虫ばまれている」などは、すべて、原文のままである。この当時、これらは、それぞれ、「作つた」、「考ヘ方」、「だと云ふ」、「示してゐる」、「蝕まれてゐる」と表記するのが、一般的であった。松坂忠則は、みずからの主張にしたがって、あえて、一般的ではない仮名づかい、漢字表記を用いているのである。
なお、「ブラさがつている」は、「ブラさがっている」の誤植と思われたが、原文のままにしておいた。
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