礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

回想・試作電気自動車「たま第1号」

2012-12-29 07:29:35 | 日記

◎回想・試作電気自動車「たま第1号」

 年末の片づけで、日本自動車整備振興会が発行する雑誌『自動車と整備』の創刊150号記念号(第一五巻第二号、一九六一年一月)が出てきた。同誌は、一九四七年八月の創刊で、創刊時の誌名は『自動車整備』、創刊時の発行元は、日本自動車整備研究会であったという。
 特集記事のひとつに、「私の15年前」がある。自動車業界の各氏が、それぞれ一五年前を回想した文章を寄せている。
 本日は、そのうちのひとつ、プリンス自動車販売株式会社技術部長・山内正一氏の回想を紹介しよう。

 10年というと一昔であるが何かつい最近の様な気がする。当時私達が初めて作った電気自動車「たま号」が、今日の「プリンス」のそもそもの卵であった事を思うと大変懐しい。
 私は戦時中は立川飛行機の設計に勤務し、長距離世界記録を作った、航研〔東京帝国大学航空研究所〕及朝日新聞の「A26」と陸軍の高々度長距離爆撃機「キ74」の機体を担当していた。戦争末期には出来上った十数機は空襲を避け、各地の飛行場に疎開したが、運強くか被害なしで終戦になつた。終戦と同時に米第5空軍が進駐して来て会社は占領下に置かれてしまった。A26、キ74の関係者は米軍の命令で疎開した飛行機を整備し、追浜〈オッパマ〉まで空輸し母艦に積込む仕事でその年は暮れた。翌21年には会社は従業員ぐるみ接収され、米軍の仕事をやるよう指示せられた。命をかけて作った飛行機も米国に送り終り、何か気が抜けた様だった。
 此の時に我々が今後何をするかの計画に、中心になり推進して下さったのが現富士精密の外山〔保〕専務で、同志150名が立川基地を抜け出して平和産業の自動車と自働操糸機研究へ進む事に決心した。といってもなかなか容易な事ではない。先づ別の地に工場を求めねばならない。やっと府中に軍用グライダーを作っていた木造2000坪の工場が借りられ、此処に移る事になった。此の工場たるや想像外のしろもので、雨が降ると傘をさして事務をやり、工場内はゴム長で歩くという程のボロ工場だったが、それでも元気一っぱい立川基地からの逃出しにかかった。疎開地からの材料、機械の引揚げ、基地から合法非合法の什器其の他の持出し等さながら夜逃げの感であった。
 当時はガソリンの統制時代でガソリン車の製造は禁止されていたので、電気自動車を作る事にした。たまたま戦前からあった小型電気自動車「デンカ号」が焼残って保存されていたのを見付け、早速手に入れて研究し整備をしてみた。車検も受けてナンバーももらった。だが府中から品川の車検場に行くと東京で充電しないと府中迄帰れないいという、今考える嘘の様な話である。いざ車検となるとシャシ刻印と原導のシャシ番号が一番違いであることが発見され、当時車検官だった根津さん(現東京いすずにおられる)に三拝九拝、やっと盗品でないことが解ってナンバーを頂いた。今でも根津さんに感謝している。
 あれやこれやで当時高速機関(オオタ号)が立川飛行機の子会杜であった関係から図面を借りたり、日立多賀工場でモーターを作ってもらったり(当時日立本社の松原さんの非常な熱意で実現した)、湯浅電地の協力で何とか試作電気自動車「たま第1号」が完成したのは確か21年の秋だったと思う。全員が整列している前で私がハンドルを握りテープを切って初運転した感激は今でも忘れない。
 翌22年に丁度貴誌の創刊の年と聞き、全く感無量である。此の年の8月に生産の乗用車及び貨物車が完成し、日比谷で展示会を行って販売を開始した。以来15年今のプリンスの姿を見ると夢の様である。そして我々の苦難時代より色々面倒を見て下さった、ブリヂィストンタイヤ社長石橋正二郎氏及びプリンス自販前社長鈴木里一郎氏に深く感謝致します。
 尚同時に研究を始めた自動繰糸機(繭から人手によらず自動的に糸をとる機械)は、苦節数年にして完成し、今では国内はもとより欧州にも輸出され富士精密の重要な製品となっていることをつけ加えておく。

 かなづかいは、新旧が入り混じっていたが、現代仮名づかいに統一した。漢字は原文のままにしておいた。
 ちなみに、文中にある「プリンス」は、当時のプリンス自動車(一九六六年に日産自動車と合併)の社名および車名である。

今日の名言 2012・12・29

◎テープを切って初運転した感激は今でも忘れない

 プリンス自動車販売株式会社技術部長(当時)・山内正一氏の言葉。山内氏は、試作電気自動車「たま第1号」の初運転を任せられたという。『自動車と整備』創刊150号記念号(1961年1月)62ページより。上記コラム参照。

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