礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

中野訴状は「お家騒動」に端を発している

2021-01-17 02:27:13 | コラムと名言

◎中野訴状は「お家騒動」に端を発している

『サンデー毎日』特別号「六十五人の死刑囚」(一九五七年九月)から、杠国義執筆の記事「天国の鍵を捜す男」を紹介している。本日は、その四回目。

平沢期待の中野訴状
 ところで平沢も多分に期待をかけているような口ぶりを示した中野訴状は、昭和三十年〔一九五五〕九月ごろ、千葉県△△市△△六七三に住む薬剤師中野武義(六五)たち数人から、東京法務局人権擁護部に持込まれた。
〝帝銀の真犯人は別にいる。平沢は無実だ!〟
 というのである。これを取りあげたのは、人権擁譴委員の磯部常治弁護士だ。一年余の間コツコツ調べているうちに、ついに本年〔一九五七年〕に入って東京高検でも動き出した。折柄〈オリカラ〉、平沢の三度目の再審申立を審理している東京高裁刑事第六部も、この高検の捜査結果をもって――という状態である。
 磯部弁護士は銀座で妻子を殺された事件で有名であり、またその犯人は第一審で死刑の宣告をうけながら、控訴しなかったというのも類のない事件である。そして磯部弁護士自身は死刑廃止論の急先鋒というのだから、妙な回り合せだ。不幸以来の磯部弁護士は、ますます天地陰陽の東洋哲学と、仏教に傾倒し、増上寺の役職もかねているとか、あるいは平沢と共鳴点もあるのかも知れない。
 さて中野訴状の内容だが、擁護部の調べでは、これはちょっとしたお家騒動に端を発している。
 二十九年〔一九五四〕の二月、五十九才で死亡した△△市☆☆☆の××病院院長、□□○○○博士は、しがない妓夫太郎(ぎゅうたろう)の子供として生まれた。苦学をかさねて東大を出て医者を志したが、開業する金がない。そこで親類筋に当る中野が資金面も応援し、同時に自分も近くで薬剤師として、もちつもたれつ繁盛した。□□は副院長以下医師、看護婦数名を雇い、自家用車ももち、田畑〈デンパタ〉も八十町歩〈チョウブ〉ばかり購入した。ただし中野の言葉によると、医は仁術どころか、金持の患者には注射の手心ひとつでいつまでも入院させて引っばり、貧乏人には眼もくれない、徹底した金もうけ主義だったという。
 そのうち戦後の第二次、第三次と農地改革につれ土地は失った。加えて□□は 父の淫蕩な血を引いた故かどうか、看護婦に手を出し、二号を囲い、それでも飽きたらず女遊びは旺盛だった。当然、懐ろは窮し、病院の経営はゆきづまった。そこで□□が狙ったのは、相変らず健全を保っている薬剤師の中野家の財産である。
「あなたの御主人は危い。精神病の徴候がある。医者のわたしが診ていうのだから間違いない。いまのうちに治療せぬと、とんでもないことになる」
 そういって中野の妻子を口説き落し、市川精神病院に軟禁してしまった。
 狂人で誰も精神病を名乗る者はいない。中野も自分の正常を証明して出所するのに五十数日かかった。妻子は両手をついて、
「□□にだまされました」
 と謝ったというが、もう後の祭り、不動産を残してすっかり□□にうまい汁を吸われてしまったあとだった。
 中野は無情に嘆く老〈オイ〉の辛さを知った。同時に□□に対する復しゅうの念に燃えた。そのころ眼にふれたのが帝銀事件である。わが身につまされ、平沢もとんだ濡れ衣〈ヌレギヌ〉ではないかという気がした。なお 犯人の人相書と、□□の顔が幻の如く重なってきた。ひそかに□□の身辺を洗いはじめたが、不審な点ばかりだ。【以下、次回】

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