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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

岡田嘉子と杉本良吉、樺太で国境を突破

2025-07-13 00:06:13 | コラムと名言
◎岡田嘉子と杉本良吉、樺太で国境を突破

 井上正夫『化け損ねた狸』(右文社、1947)から、「井上演劇道場」の章を紹介している。本日は、その四回目。

 さて、年も改つて〔1938〕めでたく明治座の初日も開き、私は毎日楽屋入りの前に稽古場に立寄つて、道場員の稽古を見たりしてゐたのですが、まだ松もとれなかつた頃であつたと思います、道場へ立寄ると、警視庁の特高課の者が私の行くのを待ち受けてゐるのです。何事かと別室で会つてみると、意外にも正月匆々、岡田嘉子が杉本良吉氏と樺太に渡り、国境を突破してソ連領内に脱走したといふのです。私は全くびつくりしてしまつた。私にとつては全くの寝耳に水だつたのです。杉本氏と嘉子との間がそんな仲になつてゐたといふことも、全く気がつかずにゐたのでした。
 後で色々と思ひ合せてみると、成程なアと肯かれる節々がないことはない。杉本氏の稽古ぶりがあまりに熱心すぎたこともその一つといへやうし、嘉子があんなに大阪へ行くのをいやがつた理由も読めるのです。それよりも私の感激したことは、恋愛が嘉子の芸をそんなにも素晴らしく上達させたのかといふことでした。
 岡田嘉子といふ女優は、以前にも色々とスキヤンダルを沢山持つた女でした。まだ研究生の頃に同じ劇団の若い俳優との間に子供を生んだことがあるとか、次には山田隆彌〈タカヤ〉との関係があり、それから日活女優の頃には「椿姫」の撮影半ばに、竹内良一と恋愛の逃避行を企て、随分世間を騒がせたものでした。そしてその当時は、竹内との仲も面白くなくなつて、九段の野々宮アパートといふ豪華なアパートに、独身生活をしてゐるといふ話だつたのですが、杉本氏との間にいつの頃からさういふ恋愛が芽生えてゐたものか、私には知る由もないことでした。
 おそらく岡田嘉子といふ女優は、さうして新たな恋愛に入る毎に、女優としての技芸を上達させて行つたのではないでせうか。やはり彼女は感情のゆたかな芸術家だつたのだなアと、私はひそかに思つたものでした。
 ところで、大いに困却したのは私です。私は岡田嘉子といふ相手役を得てから、どれほど舞台に張りを得たことかしれん。殊に最近はめきめきうまさを加へて、どうかすると私など喰はれてしまふこともあつた。岡田嘉子さへゐれば、どんな芝居でもできる。もう私も六十近くなつたのだから、嘉子を相手に後世の語り草に残せるやうな芝居をしてやらうと、拉は犬いに張り切つてゐたわけなのでした。そこへ突如として此の越境事件が湧き上つたのですから、私にとつては片腕も片脚ももぎとられてしまつたやうなものでした。
 私は悄然として、めあてのなくなつた将来の道を眺めたのです。〈271~273ページ〉【以下、次回】

 岡田嘉子・杉本良吉の越境事件は、ウィキペディア「岡田嘉子」の項などに、概略の紹介がある。それらよれば、ふたりは1937年(昭和12)12月27日に上野駅を出発し、同月31日、樺太の敷香町(シクカチョウ)の旅館に投宿。1938年(昭和13)1月3日、馬橇(ばそり)に乗って国境線に向かい、国境線から50メートルのところで橇を降り、走って国境を越え、ソ連領に入たという。

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