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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

例によって岡田嘉子の芸が冴えわたっている

2025-07-12 00:02:22 | コラムと名言
◎例によって岡田嘉子の芸が冴えわたっている

 井上正夫『化け損ねた狸』(右文社、1947)から、「井上演劇道場」の章を紹介している。本日は、その三回目。

        岡田嘉子越境事件
 その年〔1937〕の十二月に、私は一座を率ゐて新宿の第一劇場に出演しました。その時の出し物は額田六福〈ヌカダ・ロップク〉氏の「善知鳥【うとう】」、三好十郎氏の「彦六大いに笑ふ」の再演、本庄桂輔氏の「土曜日の夜」、中野實〈ミノル〉氏の「江東の侠児」等で、そのうち二番目の「彦六」と最後の「江東の侠児」とは、杉本良吉氏の演出だつたのです。
 その前の月、私の一座は旅に出てゐて、月末近くには下関で打つてゐたのですが、そこまで稽古の打合せのため、杉本氏が長駆してくれたりしたものです。実に熱心な人だと思つて、私はその時ひそかに感謝してゐたのでした。
 さて、第一劇場の蓋が開いてみると、例によつて岡田嘉子の芸が実に冴え渡つてゐる。澄んだ美しい眼を持つた人でしたが、その眼が殊に美しくて、なんともいひやうがないほど、私は幾度か舞台で惚れ惚れしたこともあつた。兎に角すばらしい出来栄えなのでした。
 と、その興行れも終り近くなつて、翌十三年〔1938〕正月興行の計画もそろそろ定まり、私は明治座で開ける新派大合同に出演することになつて、中野實氏の「春の灯」といふ出し物までも本極まりになりました。すると、松竹本社の方から、岡田嘉子は大阪の壽三郎〔三代目坂東壽三郎〕の一座が是非貸してほしいといふことから、貸してやつてくれんかといふ交渉があつたのです。私の一座だけの興行であつたら、嘉子にぬけられることはつらかつたが河合〔武雄〕、喜多村〔緑郎〕、花柳〔章太郎〕などといふ女形の多い大合同の一座に出ることとて、それほどの苦痛も感じないまゝに、私はそのことを嘉子に伝へたのです。すると彼女は断固として、
『いゝえ、私はいやです。大阪なんかへは行きません。大阪へ行くくらいなら休ませていたゞきます。』
と血相変へんばかりにしていひ切るのです。大阪へ行くのがどうしてそんなにいやなのだらうと、私はいさゝか不思議に思つたものでした。で、そのことを本社に伝へると、大阪ではもうそのつもりで計画を進めてゐるのだから、是非なんとかといふ話です。そして本社から人が来て、直接嘉子に交渉をはじめました。すると嘉子は、あの大きな眼からポロポロ大粒の涙をこぼして、どうしても大阪へは行かない。どうしても行かなければいけないといふのなら、もう松竹を止めさせて貰ふとまでいひ出して、どうしても承知せんのです。で、とうとう大阪行の話はそれきりになり、嘉子は正月興行を病気のため欠勤するといふことに表向きはなつたのでした。〈268~271ページ〉【以下、次回】

 文中、「松竹本社の方から」とある。このあとの記述によって、井上演劇道場が、当時、松竹の傘下に入っていたことがわかる。

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