礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山本有三の小文「ミタカの思い出」を読む(付・マイナリさん無罪)

2012-11-08 07:15:31 | 日記

◎山本有三の小文「ミタカの思い出」を読む

 作家の山本有三に「ミタカの思い出」という小文がある。一九六五(昭和四〇)に、『三鷹市報』に掲載されたものである。有三はこの時、七八歳であった。

  ミタカの思い出   名誉市民 山本有三
 私がミタカ村に越したのは、二・二六事件の直後であった。その翌年に日支事変がおこり、その三年後に、ミタカは町になった。
 太平洋戦争も、敗戦もミタカの家で迎えた。そういう意味で、ミタカは思い出の深い土地である。私はここで、「新編路傍の石」を書き、「戦争とふたりの婦人」を書き、「米百俵」を書いた。新かなづかい、当用漢字の制定、新憲法の口語化にたずさわったのも、この時代のことである。
 しかし、敗戦の結果、私は家を接収され、懐かしいミタカを立ちのかなければならないことになった。私はしばらく他人の家に間借りをしたり、大森に移ったりして、今ではカナガワ県に住んでいる。ミタカが市に昇格したのは、その間のことである。ことしは、その十五周年にあたるというが、もし、家を接収されなかったら、私も市民として、ミタカにとどまっていたことであろう。
 ミタカに住んでいたのは十一年ほどだが、ミタカは私にとって、忘れがたい土地である。

 何のケレン味もない枯れた文章だが、心に沁みるものがある。こういうのを名文というのだろう。
 山本有三という作家のことを私は、これまであまり気にかけていなかった。しかし、日本そして日本語に、かなり重要な影響を与えた人物ではなかったかと思うようになってきた。
 今、こうして私が書いている日本語の表記法も、元をただせば、山本有三が中心になって進めた「国語改革」によって定められたものなのである。
 小学校の国語の教科書には、よく山本有三の文章が載っていた。今ではもう、ほとんどその内容を忘れてしまったが、納豆売りの少年の話は、断片的に覚えている。級友の目を気にしながら、毎朝、隠れるようにして納豆を売り歩いていた少年が、あるとき気持ちを改め、声を張り上げて売るようになったという話であった。何とも貧乏くさい話で、小学生ながら、もう少し夢のある話を読ませてもらえないかと思ったものである。
 ラジオでは、「路傍の石」という番組をやっていた。原作をそのまま朗読していたように思うが、このあたりの記憶は定かでない。ともかく、これが陰陰滅滅たる話で、数分間、聴いただけで気が滅入った。
 引率されて三鷹の山本有三文庫を訪れたのは、小学校四・五年のころだったか。「納豆売りの少年」や吾一少年から受けるイメージとは、全くかけ離れたモダンな豪邸で、アッと驚くと同時に、何か裏切られたような気がしたものである。
 そういうわけで、山本有三という作家には、昔から良い思い出がないし、気にもかけていなかったのだが、最近は、自分もまた深いところで、この作家の感化を受けていることを認めざるを得なくなっている。「ミタカの思い出」は、先日、初めて読んだものだが、にもかかわらず、この文体に妙な「懐しさ」を感じた。教育の影響というのは恐ろしいものである。
 ちなみに、「ミタカの思い出」は、新潮日本文学アルバム『山本有三』(新潮社、一九八六)の九一ページに、その影印がある。キャプションに、昭和四〇年の『三鷹市報』に掲載されたとあるが、月日は記されていない。

今日の名言 2012・11・8

◎今日 私は さいしんで 無罪に なりました

 2012年11月7日に書かれたゴビンダ・マイナリさんのコメントにある言葉。本日の東京新聞より。東電女性社員殺害事件で、一度は無期懲役を言い渡されたマイナリさんの無罪が、昨7日に確定した。マイナリさんが、カトマンズで書いた手書きのコメントは、横書き、分ち書きであった。マイナリさんは、日本語の文章を、当初、ローマ字で書き始めたようだが、おそらくそのなごりであろう。しかし、この「横書き、分ち書き」が、なかなか読みやすい。日本語を国際的な言語にしてゆくためには、この「横書き、分ち書き」という表記法を、真剣に検討する必要があるのではないだろうか。

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