礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

戒厳司令部は東京と外部の交通・通信を遮断した

2019-03-29 04:10:04 | コラムと名言

◎戒厳司令部は東京と外部の交通・通信を遮断した

 古谷綱正解説『北一輝「日本改造法案」』(鱒書房、一九七一)の解説部分〝二・二六事件と「日本改造法案」〟から、「二・二六事件と私」を紹介している。本日は、その後半。

 それから三日間、私たちはいらいらしながら事件の推移を見守っていた。水戸連隊の一部は、帝都警備のため、二十六日の夜、すでに出動していった。駅頭での写真もとり、記事も送ったが、もちろん紙面には現われなかった。
 そして、二十九日の朝五時ころ、また支局からの電話で起された。車を回したから、すぐ来いという。まだうす暗い中を支局にかけつけた。支局長が緊張した顔をしている。東京との電話が切られてしまい、様子がまったくわからない。本社との連絡もできないという。あとでわかったことだが、この日叛乱軍討伐をきめた戒厳司令部は、午前三時以降、東京と外部の交通、通信を一切遮断したのだった。
 支局長は「車をしたてるから、いまからすぐ東京に行き、本社と連絡をとってきてくれ」という。出かけようとすると、支局長の奥さんが「ちょっと待って」といって、サラシ木棉を一反持ってきた。東京まで車をとばすと内臓がおかしくなる。これを腹にしっかり巻いていけという。私はさすがに新聞記者の奥さんだと感心した。いまなら、ほんのひと走り、銀座で酒を飲んで、タクシーで帰る人もいる水戸だが、そのころの道路事情では、東京まで車をとばすには、サラシを腹にまかなければ危いような時代だったのだ。
 当時、私は警察と鉄道を受け持っていた。警察も鉄道も、一般のとは別に専用の電話を持っている。この事態では、警察は電話を使わせるはずがない。しかし、鉄道電話が通じていれば、これは使えるかも知れない。もしダメなら、その足で東京に行くことにし、サラシを受けとって運輸事務所(現在の鉄道管理局)にいってみた。鉄道電話は通じていた。顔なじみの職員が、それを使わせてくれた。私は支局にそれを連絡し、職員に頼んで、東京、新橋、有楽町の駅長室を呼んでもらった。いずれもお話中で、なかなか出ない。一時間近くもたって、やっと東京、新橋の順でつながった。「毎日新聞(そのころは東京日日新聞といっていたが)の人が来ていないか」と聞いたが、いずれもいないという。望みは有楽町駅だが、これがなかなか出ない。「有楽町出ましたよ」と、職員がうれしそうにいってくれたのは、それからさらに三十分もたってからだった。「東日の人いますか」と聞くと、いれかわって「連絡部の福田です」と出てきた。うれしかった。私はそこで東京の状況を聞き、また「このぶんでは、夕刊はもちろん、あしたの朝刊もそちらには届かないかもしれない。ラジオでニュースを聞いて、それにもとづいて現地号外を出すように」という指令を受けて、支局に帰った。
 すでにラジオは、奉勅命令が下ったことを放送していた。そして、あの「兵に告ぐ。勅令が発せられたのである」に始まる呼びかけが、アナウンサーによって何度も読みあげられていた。私は、それを懸命に筆記して、号外にした。最初の「兵に告ぐ」という言葉が、なかなかわからないで、こまったことをおぼえている。
 正午に市外電話の遮断が解除された。本社との連絡も回復した。夕刊も、遅れはするが、どうやら配達されそうである。それを見きわめて、私はまた水戸近在にいる右翼といわれる人たちの動向を取材するために出かけた。たいした動きもないようだった。夕方五時ころ水戸市内に帰ってきた。販売店の前に大きな貼り出しが出ている。車をとめて読んでみると「岡田首相生存」を知らせる特報だった。
 二月二十九日は、私にとって〝長い〟そして、あわただしい一日だった。

*このブログの人気記事 2019・3・29

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 古谷綱正「二・二六事件と私」 | トップ | 萩原健一さん主演、映画『瀬... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事