礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

淀川長治「映画は個人の所有にあらず」(1947)

2013-11-22 07:57:29 | 日記

◎淀川長治「映画は個人の所有にあらず」(1947)

 ここのところ、雑誌『映画新人』(監督新人会機関誌)第一号(一九四七年一一月)に載っている記事を、連続的に取り上げている。本日も、同誌同号から。
 どういう理由かは知らないが、同誌同号の巻頭を飾っているのは、のちに映画解説者として有名になった淀川長治〈ヨドガワ・ナガハル〉の文章である。彼はこのころ、雑誌『映画の友』の編集員だったはずである。
 タイトルは、「映画は個人の所有にあらず」となっているが、特にオリジナルな主張があるわけではない。映画に関わるエピソード等を雑然と並べた文章にすぎない。ただし、「映画通」としての片鱗は随所に見られる。その一部を抜いてみよう。

 映画と云ふものは毎週、或は月に二回くらゐ銀座の映画館で見てゐる場合には、さして気がつくものではないが、一つの追つて、或はさうでなくとも各地日本全国を旅行し乍ら〈ナガラ〉、その土地ごとに映画館を覗くならば、映画と云ふものが如何に大変なひろさを持つてゐるかが解るのである。ひろさと云ふ言葉を感化力と云ひなほしたら解りいゝかも知れぬ。私は郡山〈コウリヤマ〉の一映画館にアメリカ映画の講演の目的で出かけた時、星空が非常にはつきりと見える田舎の宿の女中が地方なまりまる出しで、「イングリツド・バーグマンが好き」と答へた其の時には、映画のひろさをつくづくと感じたものである。トンネルを通りこし野百合の咲き乱れる高原を通つて、たどりついた此の田舎でイングリツド・バーグマンの言葉を聞くことは何かしら不可思議な気さへしたものである。かう思へば「我が道を行く」は地球の半面以上を包んで、あのオマリイ牧師のやさしさが伝つた〈ツタワッタ〉筈である。何と云ふ映画はひろさを持つてゐることか。その映画を一体どのやうな気持ちで演出し、製作してゐるのであらうか、と、日本の下等な作品を見ると痛感するのである。

 明日は話題を変える。

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