礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

夏目漱石とルビつき活字

2014-09-22 03:22:26 | コラムと名言

◎夏目漱石とルビつき活字

 本年の三月九日に、「内田百間と『漱石全集校正文法』」と題するコラムを書いた。これは、『送り仮名法資料集』〔国立国語研究所資料集3〕(秀英出版、一九五二)という本に収録されていた内田百間の「送り仮名論」を紹介したものである。この「送り仮名論」のタイトルは、「動詞の不変化語尾について」で、雑誌『東炎』の一九三五年(昭和一〇)に掲載されたものだという(初出、未確認)。
 論旨は、送り仮名は、動詞の不変化語尾も含めるべきだ(「尽す」でなく「尽くす」)というものであるが、その部分については紹介せず、「漱石全集校正文法」や「ゲーテ全集文典」に言及している末尾の部分のみを紹介した。もう一度、それを紹介してみる。

 大正六年〔一九一七〕、漱石全集第一版が岩波書店から刊行せられた時、私は同門の二三君と共にその校正にあたつた。
 これより先数年、先生〔夏目漱石〕のまだ在世せられた当時、既に、先生の新著及びその頃盛に翻刻された縮刷版の校正にあたつて、私の手にかけた数は、恐らく十冊に近かつたらうと思ふ。
 校正をする際、一ばん苦しんだのは、語尾の取扱ひ方であつた。校正は原作者の原稿通りにするのが本当である。
 しかし、新著の場合でも、その時原稿として与へられるのは、新聞の切抜である。新聞のルビ附活字で都合よく植ゑられた語尾は、全然信用する事は出来ない。ルビ附活字は初めから附いてゐるルビを語幹として、その余りを勝手に語尾に出すのである。原作者の原文の語尾とは何の関係もない。
 翻刻の縮刷版の校正の時は、なほ更である。
 さうして、先生はさう云ふ問題には、割合に無頓著〈ムトンチャク〉であつた。勢ひこちらで、何かの機会に、得られた材料によつて、例へば、新聞の切抜に書き入れをしてゐられる先生の文章とか、書きつぶしの原稿の文章とかによつて、先生の文章癖を観察する外はなかつた。【以下略】

 周知のように、夏目漱石の小説は、一九〇七年(明治四〇)の『虞美人草』以降、朝日新聞の連載が初出である。すでに、ルビつき活字が考案されていた。しかも、朝日新聞は、その発祥地である。当然ながら、漱石の小説も、ルビつき活字によって製版されていた。
 このことに関して、内田百間が問題にしているのは、こういうことである。「新聞のルビ附活字で都合よく植ゑられた語尾は、全然信用する事は出来ない。ルビ附活字は初めから附いてゐるルビを語幹として、その余りを勝手に語尾に出すのである。原作者の原文の語尾とは何の関係もない」(引用文中、太字)。
 昨日のコラムでは指摘しなかったが、ルビつき活字に関しては、こうした送り仮名の問題も生じたのである。しかも、この場合、著者の原稿とは異なる形で、製版がなされる可能性があったわけで、問題は、漢字の「読み」以上に重大と言えるかもしれない。
 なお、上記の引用中に、「翻刻の縮刷版」とあるのは、一九一七年(大正六)に、岩波書店から刊行された代表作の「縮刷版」のことを指しているらしい。そのうちのひとつ『こころ』(一九一七)を閲覧してみると、総ルビではないが、随所にルビが振られている。その奥付を見てみると、印刷したのは、東京築地活版製造所である。ここは、松田幾之助が考案したルビつき活字を生産し普及させたところである。当然ながら、ルビのある箇所については、原則的にはルビつき活字が用いられたと捉えるべきであろう。
 ついでに、初版の『こゝろ』(岩波書店、一九一四)のほうも見てみた。こちらは総ルビに近く、いかにもルビつき活字で組まれているといった印象がある。これは、今回、初めて認識したことだが、一九一七年(大正六)に出た縮刷版『こころ』は、一九一四年(大正三)に出た初版『こゝろ』を、そのまま縮刷したものではない。ちなみに、初版の印刷会社は、東洋印刷株式会社である。
 それにしても、夏目漱石というのは、よくよく、ルビつき活字に縁がある作家だったと思う。だからこそ、校正にあたった内田百間らが苦労したのである。

今日の名言 2014・9・22

◎カイゼンすればするほど、忙しくなる

「あたしンちのおとうさんの独り言」のブログにあった言葉。「あたしンちのおとうさん」は、9月19日の同ブログで、拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』に言及した上で、次のように述べています。「この本を読んでいて「効率化」の話を思い出しました。/トヨタをはじめとした製造業ではどこもかしこも「カイゼン」という名で、社員全員で効率化を推し進めています。しかーし、極端な話、効率化の結果、今までの半分の時間で同じ作業ができるようになった場合、労働者は今までの半分の時間で同じ給料がもらえるようになるかというとそうではなく、今までの倍の仕事をしなけれなならなくなっています。つまり、カイゼンすればするほど、忙しくなるという状況が生まれています。/パソコンの導入で仕事が楽になったはずなのに、逆に忙しくなってしまったのも同じです。」鋭いご指摘です。あたしンちのおとうさん、ありがとうございました。

 

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