礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

夜、浜松方面を見ると、空が真っ赤になっていた

2023-12-19 02:07:53 | コラムと名言

◎夜、浜松方面を見ると、空が真っ赤になっていた

 浜松空襲・戦災を記録する会編集・発行『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、和久田純一「私の終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その二回目。

 その後日を追い米空軍の攻撃が激しくなったので、元目工場の機械は気賀〈キガ〉の空家を借りうけ疎開することとした。
 六月十八日の焼夷弾攻撃、七月二十九日の艦砲射撃により浜松全市は全く廃墟と化してしまった。
 六月十八日に広沢町〈ヒロサワチョウ〉の我が家は全焼、家族は崖下に避難した。丁度私はその夜、郷里大久保の老母を見舞に行き、浜松の自宅にはおらなかった。
 偶然にもその夜、浜松大空襲のあった日で、夜十時頃寝巻姿で外に出て浜松方面を見ると、空が真っ赤になっていたので、浜松は大変だと思いながら床についたとたん異様な激しい音がした。さては焼夷弾の落下と直感し、雨戸を開けると無数の焼夷弾が庭一面に落下していた。すぐさま老母を雇いの女中に背負わせ、向いの安全地に避難させ、自分一人で消火策を考えた。
 村人は初めての焼夷弾の落下で怖れてしまい外に出なかった。私の家は昔ながらのわら葺家〈ワラブキヤ〉であったため見るまに燃え上がったが、幸いにこの日は無風であったため本宅が焼けただけで、周囲の建造物は火災から免れたのは不幸中の幸いであった。恐らく米機は浜松市を目的としたのが、二、三秒早く投下ボタンを押したため、米機の進入路に当たった十数軒が被害を被ったと想像される。
 翌朝、浜松から使いが来て、この全焼した有様を見、あきれ顔で「実は浜松の宅が焼けたので食物を依頼に来たが、これでは仕方ないね」といって帰った。私は一応焼けた浜松宅を見たいと思って帰ってみると、住宅は全焼したが倉庫だけ一棟残っていた。しかし倉庫内部が果たして火熱のためどうなっているかは不明のため、当分の間そのままにしておいた。
 その夜は家内とつぼ瓦を枕として防空壕の中で眠れぬままに、お互いに無事であったことを喜び、又将来のことなどを話しあいながらまんじりともせず一夜を明かした。防空壕も若干燃焼しているらしく、ぶつぶつ音をたてていた。この事は私共夫婦にとって終生忘れがたい思い出の種となった。
 この戦争により国民のうけた被害は言語に絶するものがあり、有形無形の災害を蒙った。私の個人的の事であるが、経営の工場は一片の通連で買い上げられ、永年にわたる事業を失い、家は全焼、屋敷内の樹齢二百余年の大木は切り倒され、全貸家は何等の補償もなく、三男はサイパン島にて戦死、田畑は買い上げられ、残ったものといえば宅地だけ、財産税は課せられ踏んだり蹴ったりの政策には不満を抱かずにはいられなかった。しかし自分だけではなく、国民の殆どが自分同様な波目〈ハメ〉に陥ったのだと思い返して自らを慰めた。【以下、次回】

 文中、「気賀」は、静岡県引佐(いなさ)郡の町名。気賀町の読みは、もとは、「けがちょう」だったが、1937年(昭和12)に「きがちょう」に改称。気賀町は、現在、浜松市の一部。
「大久保」は、静岡県浜名郡神久呂村(かくろむら)の地区名。神久呂村は、現在、浜松市の一部。

*このブログの人気記事 2023・12・19(9位は久しぶり、8位に極めて珍しいものが)

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