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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

安倍首相の所信表明演説と古橋暉兒の農村復興実践

2014-09-30 07:39:48 | コラムと名言

◎安倍首相の所信表明演説と古橋暉兒の農村復興実践

*二〇一四年九月三〇日に、「安倍首相の所信表明演説と古橋暉皃の農村復興実践」という記事を載せましたが、愛知県豊田市稲武町の古橋懐古館の関係者のご指摘を受けましたので、タイトルを含めて、訂正と改稿をおこないました。これでも、なお、誤りがあった場合は、再度、訂正させていただきたくつもりです(2015・11・30記。なお、2016・1・22に再訂正しました)。

 二〇一四年九月二九日、臨時国会が開会した。九月三〇日の東京新聞によれば、安倍晋三首相は、その所信表明演説の最後で、古橋源六郎という篤農家に言及した。

「天は、なぜ、自分を、すり鉢のような谷間に生まれさせたのだ?」
 三河の稲橋村に生まれた、明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃〈テルノリ〉は、貧しい村に生まれた境遇を、こう嘆いていたと言います。しかし、ある時、峠の上から、周囲の山々や平野を見渡しながら、一つの確信に至りました。
「天は、水郷には魚や塩、平野には穀物や野菜、山村にはたくさんの樹木を、それぞれ与えているのだ」
 そう確信した彼は、植林、養蚕、茶の栽培など、土地に合った産業を新たに興し、稲橋村を豊かな村へと発展させることに成功しました。
 今、「日本はもう成長できない」「人口減少は避けられない」といった悲観的な意見があります。
 しかし、「地方」の豊かな個性を生かす。あらゆる「女性」に活躍の舞台を用意する。日本の中に眠る、ありとあらゆる可能性を開花させることで、まだまだ成長できる。日本の未来は、今、何をなすか、にかかっています。
 悲観して立ち止まるのではなく、可能性を信じて、前に進もうではありませんか。
厳しい現実に立ちすくむのではなく、輝ける未来を目指して、皆さん、ともに、立ち向かおうではありませんか。
 ご清聴ありがとうございました。

 寡聞にして古橋源六郎について知らなかったので、コトバンクで調べてみると、次のようにあった(世界大百科事典第2版)。

ふるはしげんろくろう【古橋源六郎】 1850-1909(嘉永3‐明治42)
 明治期の農村指導者。三河(愛知県)北設楽郡の豪族といわれた酒造家・名主である古橋家の7代目に生まれた。1878年から北設楽郡長を務めて地域産業の開発や社会教化に尽力、89年から没時まで稲橋村村長を務め、植林・製茶・養蚕・産馬・貯蓄を奨励した。篤農で勤王家であった父暉児が県内ではじめて開催した農談会を、彼は・村・郡内に広く組織し、後の系統農会の母体とした種苗所や農事講習所の設立に努め、農事関係の要職に選ばれて農業団体運動を促進したほか、品川弥二郎や副島種臣と親交があり、新知識を山村の郷里にもたらした。

 安倍首相は、この「古橋源六郎」のことを紹介しようとしたのだろうか。
 上記の「古橋源六郎」の説明の中に、「父暉児」とあるのが気になった。この「暉児」の「児」の旧字は、「兒」である。「暉兒」と「暉皃」とは、よく似ている。安倍首相が紹介しようとした「古橋源六郎暉皃」は、世界大百科事典第2版が説明しようとした「古橋源六郎」ではなく、その「父」のことだったのではないのか。
 そこで、今度は、古橋暉皃をコトバンクで調べてみた(朝日日本歴史人物事典)。

古橋暉兒【ふるはし・てるのり】
没年:明治25.12.24(1892)
生年:文化10.3.23(1827.4.18)

 幕末明治期の篤農家。富田高慶、岡田良一郎と共に三篤農ともいわれる。三河国設楽郡稲橋村(愛知県稲武町)の豪農古橋家に生れる。義政と加乃の次男。世襲名源六郎(6代)。なお諱の暉児は誤記。天保2(1831)年19歳で父に代わって傾いた家政を再建、天保大飢饉(1836)には借金借米をして飢民を救済した。同9年稲橋村庄屋となり、11年には11カ村の総代となる。村の名望家として村民の救済、農村の自力更生に尽力した。文久3(1863)年、宮司羽田野敬雄を介して国学の平田銕胤に入門、訪れる勤皇の志士を援助し、そのひとり佐藤清臣は、のちに暉皃が設立した郷学明月清風校の校長になっている。維新後、三河県庁、伊勢県庁に出仕したが、明治5(1872)年には退職し、家督も子の義真に譲る。以後、村の殖産興業に尽力し、林業をはじめ茶、養蚕、煙草、産馬改良などの事業に取り組んだ。同11年には近郷の農民有志と農談会を結成、16年には官有林の払下げを受けて植樹を呼びかけ、報徳運動を導入して稲橋村の経済の基礎を確立した。『報告捷径』『経済之百年』『富国の種まき』

 安倍首相が紹介したかったのは、こちらの「古橋源六郎」だったと見てよいだろう。
 ところが、古橋懐古館の関係者によれば、この「古橋暉皃」の説明には誤りがあるという。正しくは次の通り。

古橋暉兒【ふるはし・てるのり】
没年:明治25.12.24(1892)
生年:文化10.3.23(1813.4.18)

 幕末明治期の篤農家。富田高慶、岡田良一郎と共に三篤農ともいわれる。三河国設楽郡稲橋村(愛知県稲武町)の豪農古橋家に生れる。義政と加乃の次男。世襲名源六郎(6代)。なお諱の暉皃は誤記。天保2(1831)年19歳で父に代わって傾いた家政を再建、天保大飢饉(1836)には借金借米をして飢民を救済した。同9年稲橋村庄屋となり、11年には11カ村の総代となる。村の名望家として村民の救済、農村の自力更生に尽力した。文久3(1863)年、宮司羽田野敬雄を介して国学の平田銕胤に入門、訪れる勤皇の志士を援助し、そのひとり佐藤清臣は、のちに暉兒が設立した郷学明月清風校の校長になっている。維新後、三河県庁、伊勢県庁に出仕したが、明治5(1872)年には退職し、家督も子の義眞に譲る。以後、村の殖産興業に尽力し、林業をはじめ茶、養蚕、煙草、産馬改良などの事業に取り組んだ。同11年には近郷の農民有志と農談会を結成、16年には官有林の払下げを受けて植樹を呼びかけ、報徳運動を導入して稲橋村の経済の基礎を確立した。『報告捷径』『経済之百年』『富国の種まき』
 
 古橋源六郎は、古橋家の世襲名で、第六代が古橋源六郎暉兒〈テルノリ〉、第七代が古橋源六郎義眞〈ヨシザネ〉だったということである。
 ちなみに、暉皃(誤記)の「皃」は、貌の異体字で、読みは、音で「ボウ」、訓で「かお」、「かたち」。これを「のり」と読ませる例があるはどうかは知らないが、これとよく似た「象」という字は、「かたち」とも「のり」とも読むので、ありえない読みとまでは言えない。
 安倍首相が、演説の中で、「明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃」と表現した。この「暉皃」は誤記ということになるが、そのほか、第七代古橋源六郎義眞との区別を明確にするために、「幕末・明治の農業指導者、古橋源六郎暉兒」と、あるいは「幕末・明治の農業指導者、古橋暉兒」と表現しておくとよかったと思う。
 それにしても、首相が地方再生のモデルとして挙げた人物が「報徳運動」の実践家だったとは! 言うまでもなく、報徳運動というのは、二宮尊徳の思想と実践を踏まえた農村復興運動のことである。

*参考までに、訂正前の記事も、消さずに掲げておきます。

◎安倍首相の所信表明演説と古橋暉皃の農村復興実践

 昨日、臨時国会が開会した。本日の東京新聞によれば、安倍晋三首相は、その所信表明演説の最後で、古橋源六郎という篤農家に言及した。

「天は、なぜ、自分を、すり鉢のような谷間に生まれさせたのだ?」
 三河の稲橋村に生まれた、明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃〈テルノリ〉は、貧しい村に生まれた境遇を、こう嘆いていたと言います。しかし、ある時、峠の上から、周囲の山々や平野を見渡しながら、一つの確信に至りました。
「天は、水郷には魚や塩、平野には穀物や野菜、山村にはたくさんの樹木を、それぞれ与えているのだ」
 そう確信した彼は、植林、養蚕、茶の栽培など、土地に合った産業を新たに興し、稲橋村を豊かな村へと発展させることに成功しました。
 今、「日本はもう成長できない」「人口減少は避けられない」といった悲観的な意見があります。
 しかし、「地方」の豊かな個性を生かす。あらゆる「女性」に活躍の舞台を用意する。日本の中に眠る、ありとあらゆる可能性を開花させることで、まだまだ成長できる。日本の未来は、今、何をなすか、にかかっています。
 悲観して立ち止まるのではなく、可能性を信じて、前に進もうではありませんか。
厳しい現実に立ちすくむのではなく、輝ける未来を目指して、皆さん、ともに、立ち向かおうではありませんか。
 ご清聴ありがとうございました。

 寡聞にして古橋源六郎について知らなかったので、コトバンクで調べてみると、次のようにあった。

ふるはしげんろくろう【古橋源六郎】 1850-1909(嘉永3‐明治42)
 明治期の農村指導者。三河(愛知県)北設楽郡の豪族といわれた酒造家・名主である古橋家の7代目に生まれた。1878年から北設楽郡長を務めて地域産業の開発や社会教化に尽力、89年から没時まで稲橋村村長を務め、植林・製茶・養蚕・産馬・貯蓄を奨励した。篤農で勤王家であった父暉児が県内ではじめて開催した農談会を、彼は・村・郡内に広く組織し、後の系統農会の母体とした種苗所や農事講習所の設立に努め、農事関係の要職に選ばれて農業団体運動を促進したほか、品川弥二郎や副島種臣と親交があり、新知識を山村の郷里にもたらした。

 安倍首相は、この「古橋源六郎」のことを紹介しようとしたのだろうか。
 ところが、上記の説明に「父暉児」とあるのが気になった。この「暉児」と「暉皃」とは、よく似ている。安倍首相が紹介しようとしたのは、上記「古橋源六郎」の父のことだったのではないのか。
 そこで、今度は、古橋暉皃をコトバンクで調べてみた。

古橋暉皃【ふるはし・てるのり】
生年:文化10.3.23(1827.4.18)
没年:明治25.12.24(1892)
 幕末明治期の篤農家。高田高慶、岡田良一郎と共に三篤農ともいわれる。三河国設楽郡稲橋村(愛知県稲武町)の豪農古橋家に生れる。義政と加乃の次男。世襲名源六郎(6代)。なお諱の暉児は誤記。天保2(1831)年19歳で父に代わって傾いた家政を再建、天保大飢饉(1836)には借金借米をして飢民を救済した。同9年稲橋村庄屋となり、11年には11カ村の総代となる。村の名望家として村民の救済、農村の自力更生に尽力した。文久3(1863)年、宮司羽田野敬雄を介して国学の平田銕胤に入門、銕訪れる勤皇の志士を援助し、そのひとり佐藤清臣は、のちに暉皃が設立した郷学明月清風校の校長になっている。維新後、三河県庁、伊勢県庁に出仕したが、明治5(1872)年には退職し、家督も子の義真に譲る。以後、村の殖産興業に尽力し、林業をはじめ茶、養蚕、煙草、産馬改良などの事業に取り組んだ。同11年には近郷の農民有志と農談会を結成、16年には官有林の払下げを受けて植樹を呼びかけ、報徳運動を導入して稲橋村の経済の基礎を確立した。『報告捷径』『経済之百年』『富国の種まき』

 どうも、安倍首相が紹介したかったのは、こちらの「古橋源六郎」だったと思われる。
 古橋源六郎は、古橋家の世襲名で、第六代が古橋源六郎暉皃〈テルノリ〉、第七代が古橋源六郎義真〈ヨシザネ〉だったということである。
 ちなみに、暉皃の「皃」は、貌の異体字で、読みは、音で「ボウ」、訓で「かお」、「かたち」。これを「のり」と読ませる例があるはどうかは知らないが、これとよく似た「象」という字は、「かたち」とも「のり」とも読むので、ありえない読みとまでは言えない。
 安倍首相が、演説の中で、「明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃」と表現したのは誤りではない。しかし、第七代との区別を明確にするためには、「幕末・明治の農業指導者、古橋源六郎暉皃」と、あるいは「幕末・明治の農業指導者、古橋暉皃」と表現すべきだったのではないか。
 それにしても、首相が地方再生のモデルとして挙げた人物が「報徳運動」の実践家だったとは! 言うまでもなく、報徳運動というのは、二宮尊徳の思想と実践を踏まえた農村復興運動のことである。

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