礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

河野六郎「古事記に於ける漢字使用」を読む

2023-03-27 00:26:55 | コラムと名言

◎河野六郎「古事記に於ける漢字使用」を読む

 先週の土曜日、五反田の古書店に赴いた。雨のせいか、客足はそれほどでもなかった。廉価本ばかり何冊か買い求めたが、そのうちの一冊は、平凡社の『古事記大成 3 言語文字篇』であった。定価五八〇円、古書価二〇〇円。
 最初に読んだのが、河野六郎の「古事記に於ける漢字使用」であった。末尾に(一九五七・十一・十八)と記されているので、この本のために書き下ろされた文章であることがわかる。ちなみに、この本が発行されたのは、一九五七年(昭和三二)一二月二〇日である。
 本日からしばらくの間、この文章を紹介してみたい。ただし、紹介するのは、全体の五分の一程度になろう。

 古事記に於ける漢字使用   河 野 六 郎

    一 序 言【略】
    
    二 古事記に於ける漢字使用【略】
    
    三 上代日本に於ける漢字使用
【前略】
 以上、古事記・金石文及び宣命〈センミョウ〉の数例によって、我が国上代の漢字通用の跡を瞥見〈ベッケン〉したが、この僅か数例を以て漢字適用の変遷を総合することは極めて危険であるとしても、その大筋は把えられるであろう。即ち、上代に於いて漢字を導入した際、まず漢文を以て表わす方法が取られた。蓋し漢字は漢文を綴るための文字であるから、まずもって漢字をその本来の機能を果させるのが最も自然である。しかし、やがて漢字をそれと異質的な日本語に適用する必要に迫られると、いきなり日本語を表示することは不可能であるから、漢字の持つ表語性を利用することによって何とか日本語を表わそうとした。かくて日本語の構造を無視し、形式的な部分(助詞・助動詞・活用語尾)を省略した。金石文及び古事記の状況はこの段階を反映しているといえよう。しかし、一方に漢字を表音的に用いる風習もあった。これは表語的には表わし難い固有名詞の表記に用いられ、やがて歌謡にも採用されたが、この表音的使用が金石文や古事記に採用されなかったのは、やはり漢字が本来表語的な文字であるから、意味を捨象して専ら音韻を示すことを躊躇した為と思われる。かく、単語の表示は非分析的表語に留っていたが、日本語を表わすのにこの様な表示では不十分である。殊に複雑な構造を持つ用言を表わすのに、その構造を全然無視することは出来ない。補助動詞のタマフ・マス・マツル等はすでに表語されていたし、又而・者の如き虚字の使用で何とか切り抜けたものの、その程度では到底満足出来ない。そこで語尾乃至助詞、それも各用言の最終部分に当るものを仮名即ち漢字の表音的使用によって示す方法が採られるに至った。これが宣命書〈センミョウガキ〉に見られる手法である。そして、ここに漢字の表語的使用と表音的使用の融合を見、現代にまで及ぶ実質的なものと形式的なもののコントラストの基礎が置かれたのである。
 一方、シンタックスの面では、漢文体から離れるに従い、漸次日本語の語序を採るようになって行った。法隆寺の釈迦像光背銘〈コウハイメイ〉では全体的には漢文的シンタックスに従いながら、間々日本語的シンタックスを交えているが、薬師像光背銘では逆に漢文的成句を含みつつも全体的には日本語の語序に依っている。古事記の場合は個々の句では用いられる漢字が漢文で普通取る位置に拘束されているので、一見漢文的シンタックスに依っているかに見えるけれども、これらは日本語のシンタックスの線に沿って配置されるのであって、従って時々漢文的文体が日本語的に崩れる例もあるのである。しかし、この様な表記は明らかに不自然である。そこで、漢字は使いながらも全く日本語の語序によって配置する方向に向かった。宣命書のスタイルは正にそれである。
 さて、漢字の日本語への適用の過程は、日本に於いて日本人自身が試みた結果であろうか。漢字を導入した上代に於いて文筆の事に携わる者が主として朝鮮からの帰化民であった事実を鑑みる時は、漢字適用の試みが日本で始ったのではなく、朝鮮での実験が何程か日本の漢字使用に影響していると考える方がより蓋然的であろうと思われる。そこで、古代の朝鮮で漢字を如何に扱ったかを一通り見ることとする。〈一七四~一七五ページ〉【以下、次回】

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