礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

兄は無実の罪に問われた(北昤吉)

2023-03-04 02:48:36 | コラムと名言

◎兄は無実の罪に問われた(北昤吉)

 以前、当ブログで、有松祐夫(ありまつ・すけお)の「護衛に撃たれた美濃部達吉」という記事を紹介したことがあった(2017・5・3)。この記事は、『人物往来』第四八号(一九五五年一二月)〔特集 昭和重大事件の真正報告〕に載っていたものである。
 数日前、久しぶりに、この特集号を手にとった。右記事を初めとして、興味深い記事が満載されている。本日は、北昤吉(きた・れいきち)の「謀られた北一輝」という記事を紹介してみよう。

 謀 ら れ た 北 一 輝      北 昤 吉【きた れいきち】
  ――二・二六事件の刑死は軍部派閥抗争の犠牲で
    あった! 兄は無実だと実弟はその真相語る――

   運命の二月二十六日の朝
 思い起すと、昭和十一年〔一九三六〕二月二十六日の朝私は大正大学の講義に出るため、自動車を走らせていた。その途中、荻窪の辺で多数の新聞記者が右往左往しているのが目に止ったので「何事が起ったのだろう?」と車を止めて聞いてみた。すると、今朝、上荻窪の自邸で教育総監の渡辺錠太郎大将が壮漢に襲われて瀕死の重偽をうけた(後に即死と判明)」というのである。〝大変なことになった〟と思い乍ら大正大学で講義をしていると、今度は新聞社からお尋ねの電話がかかった。この時〝この事件に兄や兄の部下の西田〔税〕が関係しているナ"と直観した。
 そして兄、一輝はこの日から三日目に逮捕され、翌十二年〔一九三七〕の八月十九日東京渋谷の陸軍刑務所で、二・二六事件の主謀者、即ち叛乱罪という罪のもとに銃殺されたのであった。

   兄の刑死は無実の罪
 だが、兄はこの事件には何らの直接の関係はなく、兄の刑死はいわば無実の罪に問われたものであった。
 蹶起した青年将校達は確かに兄の思想に影響されていたことは事実だが、この事件に何の関係もなかったことは、この事件の軍法会議の判士であった吉田悳〈シン〉大佐(後に中将)の話を聴いても明らかだし、時の戒厳司令部参謀長の安井藤治少将も「北が指導していたらこんな不態〈ブザマ〉なことはしなかったろう」と洩していた程である。
 兄がこの事件を知ったのは、事件の起る前々日で、この経緯は次のようなものであった。即ち二月二十三日(事件三日前)、蹶起将校達はクーデター計画を同志の西田税〈ミツギ〉に知らせたが、西田は時期早尚であるとして、両手を挙げて賛成しかねた。ところが西田は血気にはやる将校たちに「お前は又反対するのか!」と暗に反対なら斬るゾ、といわんばかりに怒鳴り返えされた。
 西田はかつて三年前の五・一五事件の時、〝同志を裏切った〟と血盟団の残党川崎長光〈ナガミツ〉にピストルで撃たれているので、慌てて兄にこの報告をしたのである。
 兄はかねて長い支那革命に従事した経験から、革命を成功させるには、大尉以下の幹部が最も信頼が置け、力があると考えて、若い将校達に働きかけていた。そうした関係で青年将校の多くは兄を尊敬し、「日本改造法案大綱」の著書などを通して共鳴していたが然し兄の「一挙に宮中に侵入して、天皇をもり立てよう」という革命方式に対して、青年将校達は「日本は南米諸国とは違う、軍人は天皇を絶対視しており、そういうことは許されん」といって反対していた。ここに兄と将校達とは天皇観が違っていた。兄は天皇機関説論者であったのだ。
 ある時、兄の議論が怪しからぬというので若い将校達が後から来て「もう一度、先生の天皇に関する御説を拝聴したい」と申込んで来たことがある。兄は平然とこれら血気ざかりの将校を前にして、「天皇は世襲の大統領のようなものである」と説明していた。この点は、同じ青年将校達から祟拝され、天皇をもりたてようとしていた皇道派の総帥、真崎甚三郎〈マサキ・ジンザブロウ〉大将とも違っていた。兄は本当の自分の思想を、これらの若い人々にはいわなかったのである。
 こんな具合だから二・二六の将校達と兄との間には、当然、思想も革命への考え方も異っていたのだった。こうした相違から、兄は前々日〔ママ〕に西田から報告を受けても「仕方がない最早、兵隊に任せるより外はない」と考えた。既に兄の力ではどうにも押えることが出来ないところまで計画は進んでいたのだった。
 ところが青年将校達はクーデターの後始末のことは、何も考えていない。そこで兄は西園寺公望〈キンモチ〉は天皇との連絡もあり、殺してはいけない。池田成彬〈シゲアキ〉、岩崎小彌太〈コヤタ〉も経済人だから殺してはいけない、とこれらの人に対する暗殺を極力反対し、成功の暁は、総理大臣に台湾軍の柳川〔平助〕大将を呼んだのでは暇がかかるので、真崎〔甚三郎〕大将をすえ、鵜沢聡明〈ウザワ・フサアキ〉を司法大臣、久原房之助〈クハラ・フサノスケ〉を商工大臣にする腹だった。鵜沢さんは既にこのことあるを知っていて、事件の起った時には西園寺に忠告に出かけていた。また蹶起理由書は村中孝次〈タカジ〉が事件の三日前かに兄を訪ねて書いたことになっているが、兄は知らなかったらしい。事件後、兄が彼等と連絡したのは、村中が電話で「奉勅命令が出たというが本当か」と訊ねてきたので「奉勅命令は嘘だろう。飽くまで所期の目的達成の積りで邁進せよ」と激励しただけである。然し、この電話が、後になって「北は叛軍を激励して帰順に反対し、何時までも引き延す計画であった」といわれる原因となった。
 二十六日午後四時過ぎ頃、警備司令官(この時はまだ戒厳令は布告されていなかった)香椎浩平中将は、蹶起軍を隷下の渋谷〔三郎〕大佐の率いる歩兵第三連隊に編入して帰順させようとしたが、青年将校達は小藤恵〈コフジ・サトシ〉大佐の率いる歩兵第一連隊に編入を要望して、これは師団命令をもって許可になった。だが、小藤連隊長は蹶起軍の激励側にあったから、この命令を握りつぶして、蹶起軍に届く筈もなかったのである。事件当初は小藤大佐に限らず、軍部内に多くの同情者がいた。山下奉文〈トモユキ〉、石原莞爾などという上層幹部も、最初は大いに激励したものだった。山下などは最初は「宮中を占拠しなくては駄目だ」とさえいっていたが、石原は奉勅命令が出ると、忽ち豹変して討伐軍に廻ってしまった。【以下、次回】

 文中に、「ある時、兄の議論が怪しからぬというので若い将校達が後から来て」云々とある。北昤吉が兄を訪問していたときに、若い将校達がやってきた。昤吉もその場にいて、兄とその将校たちとの間のヤリトリを聞いていた、ということだったのだろう。
 二・二六事件の直前、鵜沢聡明(当時、弁護士・貴族院議員)が、西園寺公望(当時、興津在住)のところに「忠告」に行ったとある。本当なのか、ウワサなのか不明だが、あまり聞かない話である。

今日の名言 2023・3・4

◎天皇は世襲の大統領のようなものである

 北一輝(1883~1937)の言葉。二・二六事件の前、北一輝は、若い将校達に対し、そのように述べたという。上記コラム参照。

※追記 最近になって、筒井清忠さんの『二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館、二〇一四)を読んだ。それによると、たしかに鵜沢は、二・二六事件が起きた日、興津に西園寺を訪ねている。しかし、西園寺は、すでに自邸を脱出していた。その日の朝、木戸幸一から、襲撃があるという電話を受けていたからである。ちなみに、鵜沢が西園寺を訪ねたのは、後継内閣に対する蹶起部隊側の意向を伝えるよう、亀川哲也に頼まれたからだという。2023・3・13追記

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