◎〝不時着用意〟という号令が聞こえた(河辺虎四郎)
当ブログでは、これまで何度か、緑十字機不時着事件を取り上げている。
ポツダム宣言受諾直後、マニラに赴いた日本政府および大本営の代表使節団を、伊江島まで運んだ二機の航空機があった。白の塗装に緑の十字をつけていたので、これを緑十字機と呼ぶ。帰路、そのうち一機が、燃料切れを起こし、静岡県の鮫島海岸に不時着するという事件が起きた。緑十字機不時着事件である。
先日、河辺虎四郎著『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)という本を入手した。河辺虎四郎(かわべ・とらしろう)は、敗戦時の陸軍参謀次長で、マニラ使節団の団長を務めた人物である(一八九〇~一九六〇)。同書の第五章「大東亜戦争」の第六節「マニラへの使節」は、三一ページを費やして、マニラ使節団の顛末を語っている。第六節すべてを紹介したいところだが、今回は、とりあえず、その末尾、不時着事件に関わるところを紹介してみたい。
なお、河辺虎四郎自身は、同書で、「緑十字機」という言葉を使っていない。「全体白塗、青色の十字を胴体に描いた」などの表現を用いているのみ。
帰路、夜半海浜に不時着
私はウィロビー氏の案内で飛行場に走った。到着の時と同様、日本語を話すマシベーア大佐も同乗をした。この車の中ではお互いに殆んど全く旧知の間柄のような気持ちとなり、ウィロビー氏がドイツ語をよく話すことも知り得たので、彼と私とはドイツ語で直接の会話をはじめるようになり、彼がかつて米国陸軍大学校の教官をしていた当時、故山内正文中将が学生として在学し、立派な成績を示したことをきかされた。マシベーア大佐はかつて東京で米国大使館付武官補佐官を勧めたことがあることを話し、東京の知人の彼や是やについて話していた。
ウィロビー氏は私を飛行機の中まで送り、座席の世話までしてくれて、わかれるに際して、ドイツ語で〝またあいましょう〟といい、今度は彼から手を伸ばして、握手をかわした。
篠つく豪雨の中を離陸した。離陸後私もやや自分にかえった気楽さとなり、数十分ないし数時間の過去が思い出され、また、人種や民族を超越した人情の美しさが思われ、首をめぐらせば、人間相互には敵もかたきもない、殊に軍人の職というものは、なんと妙なものだナー‥‥などと黙想を続けたが、ヒョッと窓外を見ると、既にわれわれは雨雲層の上に出ていた。
ルソン島の北部に進むに従い、雲は次第に切れてここかしことも見える。そこいらには銃を手放した敗余のわが兵が、うつろの気持ちで集まっているのではないか。私の頭の中に山下〔奉文〕さん武藤〔章〕君の二つの顔がチラッと描かれた。
海上に出で日本に近づくに従って天気よし。航行約五時間で、〔八月二〇日午後〕六時頃、雨後のしるしもない快晴の伊江島に着き、アメリカ機を去った。昨日のようないかめしい応対もなく、すぐにわれわれの乗るべき陸攻機〔一式陸上攻撃機〕が来た。
まさにこれに乗り込もうとすると、報告があり、われわれの他の一機が、只今の地上滑走中、制動機に故障を起こして機体が傾いたため、翼端を地上に擦った。どうしても小修理をしなければ飛行が出来ぬ、現場の米側は、必ず明朝出発できるように修理をしてやるといっているとのこと。腹だたしささえ感ずるが致し方もない。そこで私とともに先行帰任の一班を定め、重要書類を持って、すぐさま帰路につくこととし、他の一班はこの夜この地に宿泊して明朝出発することときめた。
午後六時半頃私等は伊江島を離陸した。天気快晴、夕日が赤々と輝いていたが、離陸後間もなく、東支那海の水平線下に没した。十三夜の月が刻々明るさを増し、乗務室のガラス天井を通して、乗務員たちの全身を照らしている。機内は無燈暗黒であるからわれわれは眠る以外にすべもなし。私は単調なエンジンの音の中に、心身疲労のためか、いつの間にか深い眠りに落ち込んだ。
幾時間が過ぎたのか、腕組みして椅子に眠っていた私が突如ゆすぶり起こされた。一乗務員が私の耳に口をあてて、〝海面に不時着をしなければならぬようですから、救命具を付けて下さい。時間はまだ十分ありますから、ごゆっくりどうぞ〟という。「エンジンの故障かな?」と思いながら、手探りで、私に配当された救命胴衣を着装した。ところが暫くして、乗務員が再び来て、〝御安心下さい、大丈夫です。平塚の海岸が見えました〟というのである。眠気の私の頭はハッキリせず、 救命胴衣もそのまま着けっぱなしでいると、彼は三たび来て、〝やっぱり駄目です不時着です。御準備をねがいます〟といい、急いで自席に帰っていった。私のすぐ前の座席にいた岡崎〔勝男〕氏は、〝携行書類は私がもっています〟と私に告げた。乗務員室では、寺井〔義守〕中佐もいて何事か忙しそうに、しかしまごついている様子もなく、次から次と処置をしているありさまが、月の光りでよく見られ、いじらしい気持ちをさえ感じさせる。寺井中佐の声だろうか、〝不時着用意〟という号令が聞こえた。機速は急に減った。機体の沈降が明瞭に感ぜられ、文字どおりに「刻々」気温が増すのがわかる。エンジンが時々パンパンと鳴る。
私ははえぬきの飛行家でない割合には、比較的多くの時間飛行機に乗った者の一人だと思っているが、未だかつて一回も不時着を経験したことがない。その故でもあろうか、あるいはまた、眼前に活動している乗務員たちの、かいがいしい動作にたよりを感ずるがためか、なんとなく、安全な不時着ができるのじゃないかと予感をもった。【以下、次回】
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