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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

22日は歩一の山口一太郎大尉が週番になる

2020-06-11 02:54:09 | コラムと名言

◎22日は歩一の山口一太郎大尉が週番になる

 福本亀治著『秘録二・二六事件真相史』(大勢新聞社、一九五八)から、第三章「動乱の四日間」を紹介している。本日は、その三回目。

  応援憲兵の非常召集
 二月十五日頃、逼迫〈ヒッパク〉した青年将校等〈ラ〉の情報が次々と入つて来た。
 「二十二日は歩一〔歩兵第一連隊〕の山口〔一太郎〕大尉が週番になるので、連隊長(小藤大佐)に妨害されないですむ行動がとれるから、当日決行することに決めた」
 この小藤〔恵〕連隊長というのは、兼ねてから聞いているこれ等革新派の青年将校を『俺の力で必ず焼直して見せる』と云う満々たる自信をもつて、わざわざ陸軍省補任課長から歩兵第一連隊長の椅子を買つて出た人である。
 こうなると、事態は一刻の猶予も許せない限界に来た。よし! そうなれば憲兵隊のみでも防制の処置を講じなくてはならない。
 そこで取り敢ず〈トリアエズ〉憲兵隊本部では、全国憲兵隊から三百名の応援憲兵を東京に召集し、束京憲兵隊の兵力と併せて警備する『非常警備計画案』を策定し、直ちに坂本〔俊馬〕憲兵隊長から憲兵司令官に宛てこの由を上申した。
 だが、当時岩佐〔禄郎〕憲兵司令官は病気引籠中〈ヒキコモリチュウ〉で代りに憲兵司令部総務部長の矢野機〈ハカル〉少将が司令官代理として事務を取つていた。
 ところが矢野少将は最近侍従武官から転じて来たばかりの統制派系統の人物だつたし『或いは……』と思っていると、果せるかな憲兵司令部から「陸軍省が反対だ」との理由で苦心の上申案を握り潰しにしてしまつたのだ。
 かくするうち、二月二十日、第一師団管下の団隊長会議が行われ、この席上で堀〔丈夫〕師団長からも、「青年将校の行動に就いては厳重な取締りを行うように」と云う訓示があつた。
 然し情勢の切迫は嚴重な取締り訓示で事が足りるような生優しいものではなかつた。
 そこで我々憲兵策本部は再び案を練り直し、再び東京近県の憲兵隊から一部の応援憲兵を召集して警備に当るという『縮少警備計画案』を作り、直ちに『憲兵の緊急召集』方〈カタ〉を再度上申し、合せてその折衝を重ねたのである。
 この結果、ようやくこの計画案が認められ、即刻、陸軍大臣命令として憲兵隊司令部から近県憲兵隊に派遣命令が伝達されていつた。こうして、横浜、宇都宮、金沢の近接憲兵隊から約五十名の応援憲兵が到着したものの、それは実に二月二十五日の朝だつたのである。
 それはいいとしても、情けないことにこれ等の応援憲兵はいづれも東京市内の地理に不案内である上に、情勢の認識が充分でない。むしろ、何の応援に召集されたのか……何んでもいい、任務が終つたら東京見物でもさせてもらつて帰隊しようかと云つた暢気〈ノンキ〉な気分の者が殆んどだつたろう。
 従つて危急に対する緊迫感なぞは薬にしたくてもないと云つた有様で頼りにならぬ事夥しい〈オビタダシイ〉。だが、無理もない。地方から応援に来てすぐさま情勢の認識、地形の熟知と望んでもそれは不可能な事だ。身をこの渦中に投ずるには少くも数日を要したにしても、まだ無理であつたろう。
 だが、そんな事を言つていられる場合ではない。直ちに緊急措置として例の配備計画に基き、東京憲兵隊の隊員を附して応援憲兵をそれぞれの部署に配置して終つたのは夕暮迫る肌刺す寒さの頃だつた。
 そのうち昼過ぎから重く垂れ込めていた鉛色の空から時ポタリと落ち始めていた雪が、夜に入ると愈々本降りとなった中で、慣れぬ地理と寒さに戦き〈オノノキ〉ながら、それでも或いは軒下や樹下に身を寄せた応援憲兵達は夜を徹してその部署に就いていたのである。【以下、次回】

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