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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

全くの常識人と全くの狂人は価値を創作しえない

2019-07-10 03:34:01 | コラムと名言

◎全くの常識人と全くの狂人は価値を創作しえない

 今月七日、萩原朔太郎の『日本への回帰』(白水社、一九三八)から、「学校教師の話」というエッセイを紹介した。本日は、同じ本から、「狂人の文芸」というエッセイを紹介する。申し訳ないが、「抄」である。途中、約三ページ分を割愛しているが、ここで朔太郎は、文学雑誌「松のみどり」に掲載された作品を引用し、論評している。

   狂 人 の 文 芸

 天才と狂気とは、背中合せの隣人だといはれてゐる。実際ロムブ口ゾオの診察によると、芸術の天才は例外なしに皆変質者であり、狂人に近い異常性格の所有者である。しかしすべての狂人や変質者が、必ずしも天才であるとは限らぬ。天才と狂人との間には、似て非なる微妙の関係があるにちがひない。
 頃日〈ケイジツ〉所用あつて松沢病院を訊ね、副院長齋藤玉男博士から、患者の制作になる種々の作品を見せてもらつた。いちばん多いのは彫刻と絵画であったが、他に「松のみどり」といふ文学雑誌が、患者の手によって院内で発行されてる。狂人の文学といふことに、尠からず〈スクナカラズ〉好奇心をそそられて読んで見たが、意外に常識的で平凡であり、普通の幼稚な投書雑誌と、あまり変らないので失望した。齋藤氏の説明によると、平常とり止めのない狂人たちでも、物を書くといふ時になると、健全時の文学意識が回復して、外出【よそ】行きの気取つた気持ちになるために、平凡なマンネリズムのものしか書けないのだと。これは文学者にとつても、まことに興味ある一訓戒であると思つた。僕等が詩や小説などを作る時も、やはり狂人たちと同じやうに、さうした文学のあるフオルムや、規約されてる芸術意識などを頭に浮かべて、一種の「気取った外出【よそ】行き」の気持ちになり、結局真間のリアルを書き得ず、常套的な文学のマンネリズムに終つてしまふ。先入見的の文学意識を、一切きれいに忘却して筆を執つたら、狂人にあつても僕等にあつても、おそらく作品の面目を一新するやうになると思ふ。もつともしかし、それの出来る人が即ち天才なのかもわからない。
【中略】
 ある素人画家の患者が、同じ一つの静物をモデルとして、入院前に描いた健康時の絵と、発狂間際に描いた絵と、入院後に描いた狂気時代の絵と、三つを並べて懸けてあつた。三面の中で、中間にある発狂直前期の作が天才的に秀れてよく、他の二つは段ちがひに劣つてゐた。即ち入院前の常態期の作は、何の特色もない凡作であり、入院後の狂気時代の作も、同じやうにまた平凡の愚作であつた。そしてこの事実は、いはゆる「天才」の何物たるかを語つてゐる。つまりいへば天才とは、狂気と常態との中間にある人物、精神、現象を意味するのである。全くノーマルの常識人と、全くアブノーマルの狂人とは、決して何物の価値をも創作し得ない。ゴオホが狂人になつて入院した時、人々は素ばらしい奇蹟の芸術を期待したが、結果は却つて反対になり、狂気は何物をもこの画家に与へなかつた。のみならず反対に、却つて彼の天才を奪つてしまつた。ゴオホの一生の傑作は、狂気になる直前期の作品だつた。ニイチエも同様であり、ボードレエルも同様だつた。芥川龍之介は、自殺の直前は発狂の徴候があつたさうだが、やはりその時代の作品が一番よかつた。果実が熟して、正に腐れ爛れ〈タダレ〉やうとする気味の悪い直前の瞬間がある。芸術家が天才を発揮するのは、正にこの気味の悪い瞬間である。そしてなほ広くいへば、天才の一生といふものは、この最も苦しく恐ろしい瞬間の持続なのだ。つまり狂気と常識との間に彷徨しながら、その一生を苦悩し続けるもの。それが天才の痛ましい悲劇的宿命なのだ。

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