礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

光文事件、謀略のヌシは黒田長成か

2017-12-30 05:38:18 | コラムと名言

◎光文事件、謀略のヌシは黒田長成か

 昨日の続きである。「光文事件」は一種の謀略であったという仮説を提示した。この仮説について、若干の補足をおこなう。
 この謀略の目的は、新年号に関するニセ情報を創り出し、それを意図的に漏洩させることによって、漏洩に関わった人物を特定し、かつ、その人物にダメージを与えるというものであったのだろう。
 何の準備もない中島利一郎を呼び出し、いきなり新年号案の立案を命じたのは、彼にニセ情報としての新年号案を作成させるためであった。中島は、もちろん、これが「謀略」であることは知らないし、自分の「役割」も知らない。唯一、参照しえた文献『佩文韻府』によって、中島は、「光文」ほか数案を作成した。このうち、「光文」が採用されそうだという感触を得て、彼は、期待と喜びにひたっていたことであろう。
 中島は、この謀略のために利用されただけであるから、もちろん、情報漏洩には関わっていない。
 では、黒田長成侯爵はどうか。彼は、枢密院顧問官で、枢密院の非公式委員会の段階から、新年号の制定に関与している。黒田長成が、情報漏洩の中心人物であった可能性もゼロではないが、むしろ彼は、ニセ情報を流すという謀略のヌシ(中心人物)だったのではないか。
 この謀略のヌシが誰だったかはわからないものの、この謀略が持ち上がったとき、黒田藩の藩史研究所にいた中島利一郎に白羽の矢を立てたのが、黒田長成であったことは、ほぼ間違いないのではないか。漏洩の事実が確認されたことで、中島利一郎の役目は終った。しかし、そのあと黒田は、中島に、「ああ漏洩してはどうにもならない。変更のほかに途がなかった」と言うのを忘れなかった。
 中島利一郎は、おそらく死ぬまで、自分が提示した案が、新年号として採用されるところだった、と信じていたことであろう。しかし、急遽、指名された中島が、わずかな文献に依拠して提示した案が、新年号の第一案に推されるということがありうるのかということは、中島本人が、まず疑うべきであったと思う。
 しかも、「光文」の二字は、唐代の詩人・皇甫威の「回文錦賦」という文章に出てくるという。「光文」という言葉自体は悪くないにしても、なぜ、この詩人の、この文章の、この言葉なのか。この二字が、新年号にふさわしい理由があるのか。中島利一郎は、この点を質されたら、どう説明するつもりだったのだろうか。
 さて、では、新年号についての情報(ニセ情報)を漏洩したのは、誰だったのだろうか。今となってはハッキリしたことはわからないが、枢密院の顧問官、または、その側近で、東京日日新聞の西村公明政治部長と接点があった人物であることは、ほぼ間違いない。いずれにせよ、その漏洩者は、この謀略のヌシによって、ほぼ特定されたのではないだろうか。

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