礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

浅野長矩の事跡で口碑に残るものなし

2017-12-06 05:59:24 | コラムと名言

◎浅野長矩の事跡で口碑に残るものなし

 遠藤達著『元禄事件批判』(元禄事件批判発行所、一九四二)を紹介している。本日は、その六回目(最後)。本日、紹介するのは、「十二、赤穂訪問」の全文、および「十三、批評者の立場」の全文である。

  十二、赤 穂 訪 問
 昭和十六年〔一九四一〕十月六日、著者は東京出発浅野長矩〈ナガノリ〉の旧趾調査の為め赤穂町に出張す。同地に知人なきを以て京都大学総長小西重直〈シゲナオ〉氏の紹介に依り、同大学文科出身赤穂中学校教論中野定雄氏を訪問することゝせり。七日午前十一時赤穂駅に着するや中野氏は同駅に出迎へ居られたり。同氏の案内に依り柴田旅館に入り、共に昼食を取り赤穂訪問の目的を語り、元禄浅吉事件〔元禄浅野吉良事件〕に関する赤穂町に於ける権威者に紹介を依頼したるに、既に中学校教諭平尾須美雄氏に紹介せられたる趣なり、同氏は今夜来訪の見込の由にて中野氏は一度辞去せられたるを以て前夜汽車の疲労を慰するため睡眠を取ることゝせり。
 夕方平尾氏来訪に依り赤穂訪問の目的を話し、同町に於ける浅野長矩の遺蹟及義士の遺跡等につき其蘊蓄を聴くを得ば仕合せなる旨を付加へたるに、同氏は赤穂町塩屋村出身国学院大学卒業の国語漢文科受持教論にして、赤穂中学校出勤既に十年間、中学校学生の倫理観念昂揚のため、又同町々風改善のため同校内に義士研究部を設け遺物及参考品並に関係文書図書の蒐集に努め、元禄浅吉事件に付ては同町の権威者たる由にて播州浅野家年譜、山鹿素行年譜及赤穂義士読本等を刊行し配布せらる。又別に町内赤穂城旧三の丸跡に県社大石神社旧二の丸に山鹿素行の銅像等建設あり、同氏は本事件の顕揚に付ては夙に〈ツトニ〉大に努力せられつゝありと云ふ。
 唯浅野長矩の先々代、長直〈ナガナオ〉が常陸国笠間より赤穂五万三千五百石に移封せられてより、長友〈ナガトモ〉を経て長矩の改易まで五十七年間、次ぎの藩主は永井家三万石にして僅に三年次ぎの藩主は森長直(二万石)にして爾来明治初年、廃藩治県に至るまで二百三十年を経たるを以て浅野家の治政を距ること遠く、且つ其治政は僅に五十七年の短期間なりしを以て、浅野長直の赤穂城築造、塩田開作、上水道新営、新田開作及士風醸成等の外は長友及長矩の事跡に付て何等口碑に残るもの無く、又書巻に記載せられたるもの無しと云ふ。
 翌八日は赤穂中学校に竹浪校長及中野平尾両氏を訪ひ〈オトナイ〉、旧本丸全積に建造せられたる鉄筋混凝土〈コンクリート〉五階建の宏壮なる校舎の屋上より旧赤穂藩領を指顧の内に説明を聴き、且つ校舎及構内の甚だ行届き居ることにつき感嘆し、次で平尾氏の案内に依り市内旧浅野家の菩提所たる花岳寺其他の旧跡を巡覧し、午後は平尾中野両氏の来談を請ひ、晩食を共にし、元禄の昔より現今に至るまでの旧話及新話を交換し、併せて現中学校の教育方針並に赤穂町勢の将来等につき緩々〈ユルユル〉其意見を聞くを得たるを喜び、翌午前七時過赤穂町を出発帰東せり。

  十三、批 評 者 の 立 場
 元禄十四年三月殿中刃傷事件は、徳川家の将軍政治開始以来九十七年五代将軍綱吉の代に起れり、時は恰も 東山天皇の御世〈ミヨ〉にして、天下泰平、而して江戸幕府の執政は柳沢吉保にして、荻生徂徠〈オギュウ・ソライ〉は実に其顧問たり、此背景の前に突如として殿中刃傷事件起り其翌十五年十二月には赤穂浪士四十六人〔ママ〕の本所吉良邸夜襲事件を見たり、此両件に対する処分及其処分に対する批判は、日本朝廷としての立場、徳川幕府としての立場、尚ほ細分して幕府行政官としての立場、同司法官としての立場、更に学者としての立場、又吉良側としての立場及浅野側としての立場より自ら若干の異動を生ずベきは見易きの道理なり。従つて本事件に関する著書を見るときは、該著者が如何なる立場に置かれあるやを究明し、其断案が其立場に影響せらるゝ所なきやを判断せざるべからず。即ち徳川実記、浅野家々秘、梶川筆記、多門筆記、赤城士話(水野監物家医員東城守拙元禄十六年二月著)、介石記(刃傷当時の執政阿部豊後守家臣村松彌十郎著と伝ふ)、忠誠後鑑録(津山藩士小川恒充宝永五年著)、赤穂鐘秀記(加賀藩士杉本義鄰宝永年間著)、江赤見聞記(著者及年月未詳 但し浅野家関係者の著と認められる)、等事件当時より約十年前後に成り、且つ事件関係書類中相当充実したる編著にして敬意を払ふべき参考書なりと雖も、各書類の一貫したる主張に付ては著者の立場より影響せらるゝ所なきかを充分注意せざるべからざるなり。
 余が祖先は世々上杉家の禄を食み〈ハミ〉たるものなるが故に、此立場に於て上杉綱憲の父親たる吉良家に対する悪声を好まざるは勿論なるも、余は斯〈カク〉の如き偏見を遠く離れて元禄及宝永年間発行せられたる書類及手記類を渉猟したるに、本事件の原因に付ては記録したるものなく、又刃傷事実の如きも梶川〔与惣兵衛〕二の丸留守居役と対話中の吉良上野介に背面より二太刀斬付けたるに徴するも、松之廊下に於て重大なる刃傷を断行せざるべからざる事実ありたることを発見すること能はず、而して本事件に対する当時の批評を通覧するに、当時の学者及行政家連が泰平日久しく社会道徳漸く頽敗に傾けるを慨し、之を挽回せむが為め赤穂浪士の所為を以て我邦武士の生きたる標本と為し、之を賛嘆するに急にして吉良浅野両者間の関係の如きは深く之を究極せず、風評及推定を以て以心伝心に之を取扱ひ、事件後約五十年に至り、竹田出雲〈タケダ・イズモ〉作演劇脚本「仮名手本忠臣蔵〈カナデホンチュウシングラ〉」に依り本事件の本体は如斯ものなりと信ずるに至りたるものゝ如し。研究家大に警戒せざるべからざるなり。

 第十二章に「平尾須美雄」という名前が出てくるが、赤穂義士研究家として知られ、関係の著書もある。号は、孤城(一九〇一~一九六七)。
 第十三章に、「赤穂浪士四十六人」とあるが、足軽の寺坂吉右衛門を除いた数と思われる。寺坂は討入りに加わったが、命によって、泉岳寺の門前で一行と別れ江戸を発ったとされている。
 本書『元禄事件批判』の第十四章は、「赤穂事件参考書」と題し、赤穂事件関係の文献から、参看すべき箇所が抜き書きされている。この紹介は、機会を改める。

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