礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

千坂兵部は元禄刃傷事件の前年に死去

2017-12-05 05:19:53 | コラムと名言

◎千坂兵部は元禄刃傷事件の前年に死去

 遠藤達著『元禄事件批判』(元禄事件批判発行所、一九四二)を紹介している。本日は、その五回目。本日、紹介するのは、「十一、千坂兵部高房と元禄事件」の全文である。

  十一、千坂兵部高房と元禄事件
 上杉藩の重臣千坂兵部高房〈チサカ・ヒョウブ・タカフサ〉は元禄事件の当時江戸詰家老として在職し、赤穂浪士が藩主の実父吉良上野介に対し復仇の意あることを聞知して之を沮止〈ソシ〉するか、又万一之を沮止することを得ざる場合ありと雖も累を謙信公以来の上杉家に及ぼさゞらんことを研究し種々の計画を為したることは裨史〈ハイシ〉小説特に大佛次郎(文学士野尻清彦)筆『赤穂浪士』には面白く書出されたりと雖も、千坂兵部高房は延宝二年〔一六七四〕六月三日江戸に於て江戸詰家老命ぜられ、爾来弐拾五年間在職藩主啓沃〔善導〕の資に任じたるも、上杉家綱憲公年譜第二十一冊元禄十二年〔一六九九〕巳卯正月の部に
  同五日 色部又四郎安長に江府家老命ぜられ、安長代七手隊頭を竹股権左衛門齊秀に命ぜらる。
同年五月の部に
  同二十八日 千坂高房江府より下着〈ゲチャク〉拝謁、佳肴、保醑、掛物一幅を献呈す。
とありて元禄十二年五月帰国したること明瞭なり、而して其翌十三年〔一七〇〇〕五月九日六十二歳を以て卒去したること、同家過去帳に明記ありと云ふ。即ち元禄十四年〔一七〇一〕三月刃傷事件当時には江戸に在らざりしこと明瞭なり、従つて刃傷事件につき江戸よりの公報も、在府家老色部又四郎及須田図書両人より米沢国老中条兵四郎及春日与左衛門の両人に宛てられ居れり。然るに千坂家に於て千坂高房が本件の善後処置に付て画策尽力したるが如く口伝ありとせば其致仕〔辞任〕帰国後死去の翌年発生の事件〔討入事件〕にも関与尽力したるものとなる。後代家族又は家臣が之を誤推し、以て千坂家の誇とせんとしたる如きは其妄も甚しきものと謂はざるべからざるなり。【以下、次回】

 上杉家綱憲公年譜に「保醑」という珍しい言葉が出てくる。読みは、たぶん、ホショ。意味は不明だが、「醑」を辞書で引くと「うまいさけ」とある。
 数年前、DVDで東映映画『赤穂浪士』(一九六一)を見た。原作・大佛次郎、脚本・小国英雄。東映の最盛期における豪華巨編であることは、十分に感じとれたが、設定やストーリーの点で、次々と疑問が湧いてきて、楽しむことができなかった。
 この映画では、大石内蔵助を演ずる片岡千恵蔵が主役。そして準主役は、千坂兵部を演ずる市川右太衛門であったように思う。大石と千坂は、山鹿流軍学の同門で、しかも親友だったという設定だった。この両者が、どこかの廊下で相まみえる場面もあった。
 ところが、遠藤達によれば、千坂兵部は、元禄刃傷事件の前年、六二歳で亡くなっている。千坂が元禄事件に関与したことはありえない。
 なお、どうでもよいことだが、この映画を観ていて、ひとつ困ったことがあった。それは、片岡千恵蔵の顔と市川右太衛門の顔が、あまりに似ており、区別がつきにくかったことである。もっとも、昭和三〇年代に東映の時代劇を観ていた小学生のころは、そんなことは一度も感じなかった。これはやはり、「老化」のせいなのか。

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