礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

明治維新まで忠臣蔵の芝居を許さず(上州白石村)

2017-12-04 01:35:47 | コラムと名言

◎明治維新まで忠臣蔵の芝居を許さず(上州白石村)

 遠藤達著『元禄事件批判』(元禄事件批判発行所、一九四二)を紹介している。本日は、その四回目。本日、紹介するのは、「十、旧上州吉良領一千石」の全文である。

  八、上杉綱勝急逝に関する世評【略】
  九、吉良上野介義央の仁政【略】

  十、旧上州吉良領一千石
 昭和十六年〔一九四一〕五月著者は東武電車及省線〔鉄道省線〕に依り、上野国碓氷郡旧人見村に至り、現管轄村たる西横野村〈ニシヨコノムラ〉役場に村長中山範吾氏を訪問し、今より約二百五十年前に了る〈オワル〉七十六年間即ち、寛永四年〔一六二七〕より元禄十六年〔一七〇三〕までの間に於て旧人見村は吉良家の領地たりしが、其遺跡の討ぬ〈タズヌ〉べきものゝ有無に付〈ツキ〉問ふ所ありしが、其答は何等口碑に残るもの無く、郷土誌中にも何等記入せられたる史実なし、只村内字〈アザ〉大王寺に須藤姓のもの数戸あり、其本家は現今所在不明なりとか聞くも、元吉良家の代官なりしと伝へられると云ふ。余が元禄事件及吉良家に関する史実調査の関係及元三州〔三河国〕直領訪問の結果概要並に西条吉良第十八代義周が絶家の処分を受け、二十一歳の一月流謫〈ルタク〉の地信州上諏訪町に於て「マラリヤ」の為め絶命せるが、其終焉の地訪問の経過等参考の為め談示して、同夜は磯部鉱泉に一泊し、其翌日は同郡内元中谷村を管轄する東横野村〈ヒガシヨコノムラ〉字中野谷〈ナカノヤ〉に村長遠間富平氏を訪問し、元人見村の現村長に対する質問及談話を繰返したるも、今より二百五十年前の事に属し、現今の行政と相関する所なきを以て、曽て〈カツテ〉村治其他の談柄〈ダンペイ〉に出て〈イデ〉たることなく神社寺院又は遺跡等にも其施設に係るものを見出さざりしと云ふ。更に転じて旧上州吉良領壱千石三箇村の一なる元緑野【みどの】郡白石村の管轄村、即ち今の多野郡平井村役場に村長小林桂吾氏を訪ふ、村長及助役共に不在なり、依て鈴木十一郎収入役(白石村出身)と対談せり。当村も亦碓氷郡二ケ村の如く遺跡なきかと速了〔はやのみこみ〕し居りたりしが、本村は案外吉良家の関係口碑に残り居るものあり、明治維新に至るまで当村に於ては忠臣蔵の芝居を許さゞりし由〈ヨシ〉にて、村内に吉良上野介母堂が温良入浴の帰途俄に〈ニワカニ〉産気付き、当村陣屋に於て上野介生誕し、茲に産湯〈ウブユ〉を挙げし為め其用水を汲取りたる堀井あり、又胞衣〈エナ〉を埋めたりと伝ふる塚ありと云ふ。現今に於ては以上三ケ処共に私有地に編入せられたりと雖も現に口碑に残り、郷土誌にも右事実を記述せられあり、然れども産業其他神社仏閣の修繕等にして、吉良領時代に施されたるものに付ては何等聞く所無きものゝ如く、別に得る所あらざりき。【以下、次回】

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