◎若林半著『回教世界と日本』(非売品、1937)
上野文庫(かつて上野広小路に存在した古書店)の店内で、店主の中川道弘さん(一八四〇~二〇〇三)と雑談していたとき、これからどういう本が売れるのかということが話題になった。おそらく二〇〇〇年前後のことだったと思う。私が、「戦前・戦中のイスラム関係書が売れるのではないか」と言うと、中川さんは、これを真に受け、「これからそれ、集めます」と言っておられた。
このとき、「戦前のイスラム関係書が売れるのではないか」と言ったのには、多少は根拠があった。戦前戦中の日本においては、欧米列強と対抗する必要上、アジア中東のイスラム勢力と結ぼうとする動きがあり、イスラム教、イスラム圏に関する研究も、それなりに進んでいた。また、アジア太平洋戦争がはじまってからは、日本軍が、実際にイスラム教徒と接する機会が増えてきた。したがって、戦前・戦中には、少なからぬイスラムの研究書、入門書が発行されることになったわけだが、今日、これらのイスラム関係書は、ほとんど顧みられていない。いずれ、そういった本が、注目されるのではないかと思っていたのである。
いや、一九九二年には、大川周明の『回教概論』(慶應書房、一九四二)が、中公文庫の形で復刻されていた。「戦前のイスラム関係書」は、すでに注目され始めていたとも言える。
中川さんには、そんな情報も、お伝えしたと思う。とはいえ、私自身は、「戦前のイスラム関係書」を集めようとしたことはない。それでも、五、六冊は持っており、時折、目を通すこともあった。本日、紹介するのは、それらのうちの一冊、若林半〈ハン〉著『回教世界と日本』(非売品、一九三七)である。
回教世界と日本 若林 半著
回教政策の回顧
回顧すれば予が回教政策に志を立てしは今より二十有七年前のことである。予は大正元年〔一九一二〕、ビルマノ〔ビルマの〕傑僧オッタマ師(現全印度教教会々長)と共に英領印度に遊び大に発見する所あり、帰来回教政策が東亜経綸の重大要務なるを稽へ〈カンガエ〉、熟慮の末、大正三年〔一九一四〕実弟若林九満を支那に送り、湖南を中心とする支那回教徒と交遊連鎖を結ばしめ、以て他日の対支政策に資する素地を造らしむべく活動せしめしに、大正十二年〔一九二三〕不幸彼は病魔に犯され、滞支十年未だ志を得ず、同年四月湖南省長沙に於て可惜〈オシムベシ〉、青雲の志を懐いて異邦の土と化した。
是より先き予は大先輩頭山満〈トウヤマ・ミツル〉翁及び内田良平先生と謀り、畏友田中逸平〈イッペイ〉君を支那青島〈チンタオ〉に訪ひ〈オトナイ〉、予の志を舒べ〈ノベ〉、東亜経綸に於ける回教政策の重要性を説きしに同君亦大に共鳴し、今後は相携へて目的の達成に竭す〈ツクス〉べきを約せり。爾後同君は専ら回教及び回教民族の研究に熱中し、大正六年〔一九一七〕回教の持戒を受くるに至つた。予は東都〔東京〕に在つて専ら政府の要路や先輩識者に回教問題の重要なる所以を説き、速かに具体策を講ずるの緊要なるを陳べしが、言を聞く人は多きも実行に忠ならんとする熱意の人なく、歳月徒らに〈イタズラニ〉流れて時を失はんことを惧れ〈オソレ〉ゐたるに、偶〈タマタマ〉支那に送りし実弟九満は前記の如く征旅の露と化するに至り、予の志は彌々〈イヨイヨ〉堅く、信念益々強きを加へた。肉身の第一犠牲を出せし予は奮然自ら事に当るを決し、単独苦心の末、大正十三年〔一九二四〕田中逸平君をして回教巡礼の途に上らしめしに、君〈クン〉は能く万難に克ち無事聖地メッカの大祭に参列し幾多貴重なる体験と収獲を得て翌十四年〔一九二五〕帰朝した。
田中君の巡礼収獲に依り、回教徒及び回教国に関する事情を一層深め、政治的に経済的に予の回教政策に対する信念は認識の増大と共に益々堅きを加へた。然れども回教政策の事業たるや、事〈コト〉大にして且つ遠猷〈エンユウ〉、到底予一個の力を以て道を開かんことは不可能事である。依つて予は更に熱心事〈コト〉に当り、要路を始め先輩識者の間に東奔西馳大に努めしも、本問題に対する態度は依然冷淡予の微力固より〈モトヨリ〉然る所ならんも亦、回教政策に対する識者の認識は容易に熟せず、国家の将来を念ふて〈オモウテ〉転た〈ウタタ〉慨想を久うすること二十年、自ら身の微力を喞ち〈カコチ〉鬢髪〈ビンパツ〉白きを加へ、頂毛の薄れ〈ウスレ〉行くを見るのみであつた。【以下、次回】
引用は、同書一~三ページから。ここに、頭山満、内田良平といった名前が挙がっていることに注意されたい。
この本の巻頭には、頭山満翁とシジット・イブラヒム翁(イスラム教の長老)が並んだ写真が掲げられている。内田良平は、この本の刊行前に亡くなっていたと思われ、その写真の中央上部に、「故内田良平翁」として写真がはめ込まれている。
なお、大本教の出口王仁三郎は、内田良平と親交があった。出口が、一九三四年(昭和九)に、「昭和神聖会」という新組織を結成した際、出口はみずから「統管」に就任し、内田良平が「副統管」に就任している。
これは、インターネットから得た情報だが、ヨガ指導家として知られる沖正弘(一九二一~一九八五)は、その著書『瞑想ヨガ入門』(日貿出版社、一九七五)の中で、「中村天風先生、若林半先生、藤井日達上人、鈴木大拙先生、ビルマ独立の父オッタマ僧正や、大本教の出口聖師」といった人物に教えを受けたと書いている。この六人の中に、「若林半先生」、「オッタマ僧正」、「出口聖師」(出口王仁三郎)が含まれていることは、興味深いことである。
今日の名言 2015・1・5
◎坊や、なんで右で打ってるの?
野球評論家・荒川博さんの言葉。中学生時代の王貞治さんは、地元・墨田区地元のチームの一員として、野球の試合に出場していた。そこを通りかかった荒川博さん(当時毎日オリオンズ選手)が、貞治少年に、こう語りかけたという。1954年11月末のことであった。その日まで、貞治少年は、右打ち左投げだったのである。本日の日経新聞「私の履歴書」より。
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