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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

朝鮮・清津市を走った「百人乗りバス」(1940)

2014-04-24 05:30:40 | 日記

◎朝鮮・清津市を走った「百人乗りバス」(1940)

 昨日の続きである。雑誌『図書設計』N0.82(二〇一二年八月)に載せた拙稿「戦中の自動車雑誌『汎自動車』から」の紹介で、本日が三回目で最終回。   

 三〇年以上前に私は、『汎自動車・技術資料』十数冊を入手し、今でも愛蔵している。この雑誌には、上に紹介した記事以外にも、きわめて興味深い写真・記事・資料などが満載されている。以下に、そのごく一部を紹介しておこう。
 一九四二年五月五日発行の『汎自動車・技術資料』には、戦時下の朝鮮・清津市で使われていた「百人乗りバス」についての記事がある。おそらく、かなりのバス愛好家でも、このバスの存在は知らないのではないか。記事によれば、このバスは一九四〇年に完成し、その翌年以降、計三輌が運行されたという。「トヨタ二六〇〇年」を改造し、もともと二軸四輪であったものを、四軸一二輪(前方二軸四輪、後方二軸八輪)としている。朝鮮金属工業株式会社による製作だという。車幅は二・二メートル、全長は一一メートル。
 骨組みの写真を見ると、エンジンは前置きで、そのエンジンの上に運転台を設けて、キャブオーバー型としていることなどがわかる。
 また、一九四三年六月六日発行の『汎自動車・技術資料』には、成田鉄道、成田・八日市場間(多古線)で運行された日燃式M-100型、および日燃式C-100型が、写真によって紹介されている。前者は木炭、後者は石炭を燃料とする(Mはモクタンの略で、Cはcoalの略か)。ともに、ガソリンカーを改造してガス発生炉を取り付けた、いわゆる「代用燃料車」である。なお、多古線は、一九四四年一月に休止され、戦後の一九四六年に廃止された。M-100型、C-100型の活躍は、長くは続かなかったものと推測される。

 朝鮮・清津市の「百人乗りバス」、多古線の代用燃料車とも、雑誌では詳しく紹介できなかった。このコラムでは、写真の紹介は割愛したが、雑誌『汎自動車・技術資料』には、貴重な写真が載っている。またその一部は、雑誌『図書設計』N0.82に転載しておいた。

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