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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

謀略・長崎医科大学事件(浅田一教授への「ニセ電報」)

2012-07-04 05:57:50 | 日記

◎謀略・長崎医科大学事件(浅田一教授への「ニセ電報」)

 平島侃一ほか編『浅田一記念』(浅田美知子、一九五三)を一読して最も興味深かったのは、夫人の浅田美知子さんが書いた「しのぶ草」という文章だった。
 特に、「長崎医科大学事件」を回想している部分に注目した。
―そこへ長崎医大の不祥事件が勃発したのでございます。事の起りは、東大、京大学閥争いの渦中に苦悩した一研究者が、一気に法的解決に乗り出したことに始まります。……/良人は良人なりの考え方で、俯仰〈フギョウ〉天地に恥じない信念のもとに、この事件を処理しようとしていましたが、辞職の勧告など色々複雑な話があり、恩師に身のふりかたにつき再三連絡、人を介して電報の問い合わせも致しました。「チイニミレンアリヤ」という意外な返電をうけるや、敢然として辞職を決行しましたが、その後、上京の途中、恩師にお目にかかりますと、「どうしてやめたのだ」と電報の件も御存知ない御言葉なので、「これには唯々不可思議の他なかったが、追求せずに沈黙したヨ」と自分の胸におさめていまいました。これは私も忘れられない、全く不思議の一つでございます。―
 文中に「良人」という言葉がある。今ではほとんど死語だが、妻から夫を示す言葉で、読みは〈リョウニン〉または〈リョウジン〉。ここでは〈オット〉と読むのがよいのか。 
 さて、浅田一が「退官」を決意したのは、ある恩師の「チイニミレンアリヤ」(地位に未練ありや)という電報だったが、当の恩師から、そんな電報は打っていないと言われたという話である。この話が事実の通りだとすれば、浅田は、恩師の名前を騙った「ニセ電報」によって退官に追い込まれたことになる。まさにこれは謀略ではないのか。
 そこでまず、「恩師」というのが誰であったかということが問題になる。さらに重要なのは、誰が、どういう意図で、この「ニセ電報」を打ったのかという問題であろう。
 まず「恩師」であるが、これは東大時代の浅田の恩師にして、当時なお、東京帝国大学で法医学講座を担当していた三田定則教授以外には考えにくい。日本における「法医学の祖」といわれる片山国嘉も、浅田にとっては東大時代の恩師だが、こちらは、事件直前の一九三一(昭和六)に亡くなっている。
 恩師であり、しかも当時、日本の法医学界の頂点に立っていた三田定則教授から、「まさか地位に未練があるわけじゃないだろうね」と言われたら、おそらく浅田としては、「退官」を決意するしかなかっただろう。
 次に、三田定則教授の名前を騙って「ニセ電報」を打った人物であるが、美知子夫人が、「人を介して電報の問い合わせも致しました」と書いていることに注意したい。その「人」が怪しい。三田定則教授の周辺にいて、浅田の電報を取り継ぐはずだった「人」が、「ニセ電報」を打った(打たされた)可能性が高い。
 では、なぜ浅田一は、退官に追い込まれたのか。これについては、浅田が「血液型と気質」相関説、あるいは「血液型と体質」相関説の支持者であったことが関係している、と私は見ている。当時(一九三二年前後)の法医学会では、「血液型と気質(体質)」相関説を否定する動きが強まり、浅田のような相関説肯定派は、少数派になっていた。この際、相関説肯定派である浅田を叩いておこう、といった「空気」が、法医学会の一部に流れていたのではないか。これは単なる憶測ではなく、それなりの根拠を提示する用意がある。ただし、話がかなり長くなりそうなので、これについては、折りを見ながら少しずつ触れてゆきたい。

今日の名言 2012・7・4

◎そこでしか買えないお土産のあるような存在感のある国を目指す

 今日の日本経済新聞の「大機小機」欄にあった言葉。北京やニューヨークは、世界のあらゆるものがあるが、そこでしか買えないお土産はない。1970年代、1980年代の日本もそうだったのではないか。これからの日本は、欧米諸国のように、「そこでしか買えないお土産のあるような存在感のある国」を目指すことになろうという趣旨。署名は「パピ」さん。日経新聞も、その論調を変えようとしているのか。

コメント
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