ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

母の故郷を駆ける~いわきサンシャインマラソン(3)

2018-02-14 22:07:52 | RUN
今回のシリーズのテーマは、「母の故郷を駆ける」である。
母の祥月命日が、まさに昨日であった。
昨日書いた分は、ちょうど母の故郷―実家の近く―を走ったところの内容であった。
母の兄である伯父、母の姉である伯母も登場していた。
実家のすぐ近くの港、兄姉の登場と、母のたまにちょうどよい中身を書くことができた。

その祥月命日、墓参りをしたくて車に乗り、妻と娘と3人で墓の下の道までは行ったのだ。
だが、この大雪で墓へ上る道はとても歩いて行けなかった。
仕方がないので、路上から車の窓を開け、3人で墓の方向に向けて両手を合わせただけしかできなかった。

さて、サンシャインマラソンの続きに戻ろう。

いわき海星高校手前に中間点があった。
中間点の通過は、2時間15分6秒。
このペースなら、倍すると4時間30分台もねらえるところ。
いい調子だ。
⑱6分27秒、⑲6分12秒、⑳6分39秒、㉑6分24秒、㉒6分29秒。

しかし、そんな思いを打ち砕いたのが、22km過ぎから500mほどの間に40mもの高さを駆けあがるという三崎公園への急な上り坂。
急坂は、昨年11月のたいないマラソンで経験があったが、今回はあの時とは違って、すでに22km走って来ている。
あの時とは体力の消耗度が違うのだ。
走り切る、という目標があったから、歩きはしなかったが、リズミカルには走れなかった。
大きく腕を振って、歩く人たちの横を、歩くよりはわずかでも速く進もうとした。
頂上付近での第5給水所では、ミニトマトやイチゴもあるなどすばらしかったが、そこに到達するためにはあまりにも脚への負担が大きかった。
この1kmは、7分34秒もかかっていた。
頂点からは小名浜港も見える。

これからそちらへと、今度は下って行くのだ。

下り坂となったのはいいが、疲れた脚には、走らされる感覚となり、つらいばかりの下り坂であった。

やがて、コースは道路から離れ、港へと入る。
その入口に、これまた従姉が立って応援してくれていた。
今度の従姉は、先ほどの94歳の伯父の長女に当たる人。
こんなふうにして、今回沿道に立って応援してくれた伯父・伯母や従兄・従姉など親類の皆様たちの数は10人を超えた。
これも、母の故郷ならではのこと。
今までこんなに自分を応援してくれる人たちがいるマラソンは走ったことがなかった。
通り過ぎた従姉の姿にもう一度手を挙げ、感謝した。

小名浜港。
たくさんの漁船が停泊している脇がコースとなっていた。

あの3・11の日、ここでも高い津波が押し寄せていた。
それがテレビ中継されていた映像を、親類から見せられて息をのんだこともある。
その翌月に親類の災害見舞いに来てこの近くを通ったとき、あまりにも無残なゴミの山に、津波の巨大さを感じたのだった。
しかし、今はこうして盛大にマラソン大会を行える平穏な雰囲気に包まれている。

今日は天気も海も穏やかだし、青空が広がる。
新潟と違って、見える山に白いもの、つまり雪がなく茶色いのも印象的だった。


小名浜港のアクアマリンパークをぐるりと回る。
そのコースの出口に、
「必ず、帰って来いよ。待ってるからな!」
と、大声で選手たちに声をかけ続けるおっさんがいた。
すごいね、おっさん。まあ、行って来るよ。
とはいうものの、ここを出ていくときの地点は25kmで、あと17kmも残っている。
ここからが本番。
そういう意識で、臨海工業団地のような中を走る広い道へと走り出した。

三崎公園で疲れた脚には、6分台の半ばをキープするのがやっとだった。
㉓7分34秒、㉔6分31秒、㉕6分29秒。

もう2時間台の後半ということもあって、速い選手たちは次々とゴール会場に向かっていた。
しかし、私はまだ17kmもある。
走り続けるしかない。
ただ、意外と体に疲労がたまってきていた。
単調な道路を走りながら、スピードが次第に落ちてきていた。
㉖6分38秒、㉗6分32秒、㉘6分35秒、㉙6分42秒、㉚6分46秒。

なんとか30kmを迎え、さあこれからは、ためていた余力の出しどころ、と思っていた。
ところが、30kmから上りが始まり、それが31kmから32km地点に行く道は、さらに急坂。
22mの高さを上ることになる。
これがきつかった。
ここで完全に、心身にダメージを受けた。
余力が残る余地はなくなっていたのだった。
㉛7分2秒、㉜7分21秒。
実は、前日下見をしてコースを探したのだが、30kmから折り返し地点までがよくわからなかったのだ。
あらかじめコース図などで確認していたが、こんな急な坂道だったとは、そこまで想像できなかった。

32km、坂道のコースの頂点には、若い学生たちが「あと10㎞、がんばって」と集団で掲示物を出しながら応援していた。
疲れた人に「あと10km」は応援にならない。
まだそんなにたくさんあるのか、と気が滅入る人が結構いたことだろう。
私も、その一人だった。

32kmから第2折り返し点34.5kmまでは、標高差24mをゆるやかに下る道だったのだが、道を知らないだけに、とても長く感じる道のりだった。
下りなのに、足が上がらずちっとも走れていないという感覚。
そして、序盤から少し痛みを感じていた右脚ふくらはぎ近くの痛みと、両脚太ももの今にもけいれんしそうな痛みが走るほどにつらくてたまらなくなってきた。


やっとの思いで、第2折り返しに到達したが、まだ8km近くも残っている。

第2折り返しの直後の第9給水所では、「あったかい豚汁ありますよ~!」と盛んに呼び込みを行っていた。
しかし、もうつらくてたまらなくなった私の体には、豚汁や固形物を受け付ける要素がなかった。
本来嫌いな食べ物がなく、いやしい私は、なんでもおいしくいただけるのだが、豚汁も、大好きなチョコレートも、もういらなかった。
ひたすら早くゴールにたどり着きたかった。


さて、つらい思いをしている選手たちに対して、いわきサンシャインマラソンのサポート体制のすごいところは、ピンクの上着に身を包んだ救護係の存在だ。
コース終盤のこの辺りになるといたるところに立っていて、かなりの数の人がいた。
苦しくなった人を絶対助けるぞ、というようなサポート精神が見える。
その表れが、筋肉痛用のスプレー缶だ。
痛んだ人たちが、次々に寄って行って、脚にスプレーをかけてもらったり、借りて自分でかけたりしていた。
あんなにたくさんのスプレー缶を購入して、いったいいくら費用がかかるんだろう、と思わずにはいられなかった。
御多分に漏れず、私も2か所でスプレーを借りて、シュッと太ももやふくらはぎにかけた。
ただ、タイツやサポーターの上からでは、私の場合あんまり効き目がなかった。
それでも、この救護係とスプレーの数に助けられた人が多かったことだろう。
心強いサポートであった。


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