レヴィ=ストロースを持って構造主義極まれり、
といっても過言ではありません。
これまでミシェルフーコー、ロランバルトを見てきて
私たちの出発点が構造のうちにある、ということを知りえました。
レヴィ=ストロースはさらに掘り下げます。
なんと彼は親族間にある感情までも構造によって成り立っているというのです。
私たちが自然で内発的だと信じている感情
(親子、夫婦、兄弟姉妹のあいだの親しみの感情)が実は
社会システム上の役割演技に過ぎず、社会システムが変われば
親族間に育つべき標準的感情が変わってくるというのです。
な、なんですと
そんな馬鹿な。
そう思われる方がほとんどかもしれません。
しかし私はものすごく合点がいったのです。
それは私と私の妻が持ちうるそれぞれの親に対する感情が
まったくもって違っていたことに由来します。
私は子供のころ、学校から帰ると真っ先に母親のところへ行き
その日学校であったことをこれでもかと母に話して聞かせていたのです。
もちろん母も私の話を楽しんで聞いていました。
しかし私の妻はそのようなことを一度足りともしたことがないというのです。
そればかりか、いつも起こってばかりいる母親が大嫌いだったというのです。
一時的にではないのです。基本的なところで嫌いだったというのです。
そんなことってあるのか?
私にはにわかに妻の言葉を信じられなかったのです。
私はそれまで、私が持っている母への感情はまさしく自然で内発的な感情であり、
誰もがそのような感情を持っているものだと思っていたのです。
それがこのレヴィ=ストロースを読んだとき
うぎゃっと声を上げてしまうほど私は妻のその感情(母親に対する感情)
に合点がいったのです。
明日また書きます。
いや、分からない。
とにかく近いうちにまた書きます。
といっても過言ではありません。
これまでミシェルフーコー、ロランバルトを見てきて
私たちの出発点が構造のうちにある、ということを知りえました。
レヴィ=ストロースはさらに掘り下げます。
なんと彼は親族間にある感情までも構造によって成り立っているというのです。
私たちが自然で内発的だと信じている感情
(親子、夫婦、兄弟姉妹のあいだの親しみの感情)が実は
社会システム上の役割演技に過ぎず、社会システムが変われば
親族間に育つべき標準的感情が変わってくるというのです。
な、なんですと
そんな馬鹿な。
そう思われる方がほとんどかもしれません。
しかし私はものすごく合点がいったのです。
それは私と私の妻が持ちうるそれぞれの親に対する感情が
まったくもって違っていたことに由来します。
私は子供のころ、学校から帰ると真っ先に母親のところへ行き
その日学校であったことをこれでもかと母に話して聞かせていたのです。
もちろん母も私の話を楽しんで聞いていました。
しかし私の妻はそのようなことを一度足りともしたことがないというのです。
そればかりか、いつも起こってばかりいる母親が大嫌いだったというのです。
一時的にではないのです。基本的なところで嫌いだったというのです。
そんなことってあるのか?
私にはにわかに妻の言葉を信じられなかったのです。
私はそれまで、私が持っている母への感情はまさしく自然で内発的な感情であり、
誰もがそのような感情を持っているものだと思っていたのです。
それがこのレヴィ=ストロースを読んだとき
うぎゃっと声を上げてしまうほど私は妻のその感情(母親に対する感情)
に合点がいったのです。
明日また書きます。
いや、分からない。
とにかく近いうちにまた書きます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます