【原文】
真乗院に、盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭といふ物を好みて、多く食くひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置おきつゝ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日・二七日など、療治とて籠り居て、思ふやうに、よき芋頭を選えらびて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。たゞひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋を芋頭の銭と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏ともしからず召しけるほどに、また、他用に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計ひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。
この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる者を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。
この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽かろく思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据すゑわたすを待たず、我が前に据ぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行けり。斎・非時も、人に等ひと定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡ければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚さめぬれば、幾夜も寝いねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常ならぬさまなれども、人に厭いとはれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。
この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる者を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。
この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽かろく思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据すゑわたすを待たず、我が前に据ぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行けり。斎・非時も、人に等ひと定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡ければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚さめぬれば、幾夜も寝いねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常ならぬさまなれども、人に厭いとはれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。
【現代語訳】
真乗院に盛親僧都という天才がいた。里芋が大好きで大量に食べていた。説法集会の時でも大鉢に山の如く積み上げて、膝の近くに置いて食べながら本を読んでいた。疾病すれば、一二週間入院して思い通りの良い芋を選別し、普段よりも大量に食べ、どんな大病も完治させた。また、誰にも芋をやらず、いつも独り占めした。貧乏を窮めていたが、師匠が死んで寺と二百貫の財産を相続した。その後、百貫で寺を売り飛ばし、三百貫もの大金を手にした。その金を芋代と決めて、京都銀行に貯金した。十貫ずつ金を引き出しては、芋を買い、満足するまで食べ続けた。他に散財する物もなく全て芋代に化けた。「三百貫の大金を、全て芋に使うとは類い希なる仏教人だ」と人々に称えられ、殿堂入りした。
この僧都は、ある坊さんを見て「しろうるり」とあだ名を付けた。誰かに「しろうるりとは、どんな物ですか?」と問われると「私も何だか知りません。もし、そんな物があったなら、きっとこの坊さんの顔にそっくりな物でしょう」と答えたそうだ。
この僧都は、男前で、絶倫で、大食漢で、達筆でもあり、学才が半端でなく、演説させれば最高だった。仁和寺系列ではナンバーワンの僧侶だったが、世間を小馬鹿にしている節があり、いわゆる曲者であった。勝手気ままに生き、ルールなども守らない。もてなしの宴でも、自分の前にお膳が来ると、たとえ配膳中であってもすぐに平らげ、帰りたくなれば一人だけ立ち上がり退室した。寺の食事も、他の僧のように規則正しく食べたりせず、腹が減ったら、夜中、明け方、構わず食べた。欠伸をすれば、昼でも部屋に施錠して寝てしまう。どんなに大切な用事があっても、人の言いなりになって目覚めることはなかった。寝過ぎて目が冴えると、夜中でも夢遊状態のまま鼻歌交じりで徘徊する。かなりの変態であったが、誰からも嫌われることなく世間から許容されていた。まさに、超人のなせる技である。
この僧都は、ある坊さんを見て「しろうるり」とあだ名を付けた。誰かに「しろうるりとは、どんな物ですか?」と問われると「私も何だか知りません。もし、そんな物があったなら、きっとこの坊さんの顔にそっくりな物でしょう」と答えたそうだ。
この僧都は、男前で、絶倫で、大食漢で、達筆でもあり、学才が半端でなく、演説させれば最高だった。仁和寺系列ではナンバーワンの僧侶だったが、世間を小馬鹿にしている節があり、いわゆる曲者であった。勝手気ままに生き、ルールなども守らない。もてなしの宴でも、自分の前にお膳が来ると、たとえ配膳中であってもすぐに平らげ、帰りたくなれば一人だけ立ち上がり退室した。寺の食事も、他の僧のように規則正しく食べたりせず、腹が減ったら、夜中、明け方、構わず食べた。欠伸をすれば、昼でも部屋に施錠して寝てしまう。どんなに大切な用事があっても、人の言いなりになって目覚めることはなかった。寝過ぎて目が冴えると、夜中でも夢遊状態のまま鼻歌交じりで徘徊する。かなりの変態であったが、誰からも嫌われることなく世間から許容されていた。まさに、超人のなせる技である。
◆鎌倉末期の随筆。吉田兼好著。上下2巻,244段からなる。1317年(文保1)から1331年(元弘1)の間に成立したか。その間,幾つかのまとまった段が少しずつ執筆され,それが編集されて現在見るような形態になったと考えられる。それらを通じて一貫した筋はなく,連歌的ともいうべき配列方法がとられている。形式は《枕草子》を模倣しているが,内容は,作者の見聞談,感想,実用知識,有職の心得など多彩であり,仏教の厭世思想を根底にもち,人生論的色彩を濃くしている。