goo blog サービス終了のお知らせ 

日本男道記

ある日本男子の生き様

25・金谷(大井川遠岸)

2010年04月11日 | 広重東海道五十三次
25・金谷(大井川遠岸)
島田から大井川を渡って金谷宿までは四粁。広重は金谷側を見た大井川の川渡しを描いている。島田の絵は川だけ、これは、河原を越して対岸の遠山を描いている。その点で小田原の絵で、正面に箱根山を描いているのに似ている。正面奥の面白い形をした遠山に該当する山形は実際に見当たらないという。広重の画面構成上の作意であろう。近い山は小夜の中山であろう。この絵も川渡しのさまが小さく巧みに描かれている。また、この絵は色彩の配分が見事で、遠山は、たとえ実在しないとしても、この鼠色で画面が整ったといっていい。
島田・金谷とも、この大井川をはさんだ二宿には、古来いろいろの物語巷説が残っているが、その内に最も人々に親しまれたものとしては、「朝顔日記」の川止めによる悲恋物語であろう。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

24・島田(大井川駿岸)

2010年04月04日 | 広重東海道五十三次
24・島田(大井川駿岸)
藤枝から八.八粁で島田宿に達するが、ここは大井川の東岸である。大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の馬子唄にもあるように、一朝雨が降ると水かさが増して川止めとなって渡渉は出来ない。そのために、東岸の島田と西岸の金谷の二宿は旅人の足だまりであった。広重は、この島田と対岸の金谷ともに大井川の川渡しのさまを描いている。島田の方の画題は「大井川駿岸」である。
川渡しの図は、小田原・府中・金谷も似た構図であるが、その視角を変えて、それぞれに変化がある。島田は河原の俯瞰図で、川を渡ろうとする大名行列や、その他多くの旅人が、川渡りの準備をしている有様がいかにも生き生きと描かれている。また、これら河原の人々の着衣は、いろいろの色彩があって、その美しさが、河原の明るさを現出させている。この図には色彩が異なっている版がある。色を二色ですませている絵で、これは異版というより完全な後版である。
絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

23・藤枝(人馬継立)

2010年03月28日 | 広重東海道五十三次
23・藤枝(人馬継立)
藤枝の宿は岡部から七.二粁ある。ここの海岸が焼津である。画題に「人馬継立」とあるように、この絵は宿場の問屋場風景が描かれている。問屋場とは、人馬の継ぎ立てや貨物の運送をさばいた所で、町役人がいて荷物の賃金をきめたり、馬の乗換えをしたり、人足の補充をしたり、駅伝の重要な機関であった。この昔の街道に、なくてはならない機関の有様を描いたのが、この絵で、問屋場の役人、汗をふいたり、煙草をふかして一休みする雲助たち、馬の鞋をとりかえる馬士など、あわただしい問屋場のひと時の情景が面白く描かれている。この絵は風景画というより風俗画といってよく、資料的に価値がある。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

22・岡部(宇津之山)

2010年03月21日 | 広重東海道五十三次
22・岡部(宇津之山)
鞠子のつぎが八粁で岡部宿であるが、この宿に入る手前に宇津の山、宇津谷峠があり、画題も「宇津之山」である。ここも東海道の難所の一つである。絵は両方から迫る山の間の峠道を描いている。道に沿って水音高く渓流があり、右手の山の杉木立が山の深さを描いている。道に沿って水を上から樵夫が粗朶を担って下りてくる。下から旅の行商人と山の女が登っていく。
鞠子の絵は早春であったが、この絵は初秋であろうか。渓流に差出た立木の葉は早や紅葉している。しかし山肌はまだ青い。この左右の青さの部分があまりにも多すぎる恨みがある。広重はそこに、この絵の画調をおいたのかもしれないが、あまりにも働きがなさすぎる感じがする。この峠の寂しさは伊勢物語にも記されているし、河竹黙阿弥は、この峠の文弥殺しを描いて、怪談劇「蔦紅葉宇都谷峠」を書いている。
この保栄堂版東海道は、保栄堂が微力であったため、当時一流の版元仙鶴堂鶴屋喜右衛門と合版で出版した。発売すると大変な人気を呼び、途中から保栄堂独力で出版した。したがって日本橋・品川・川崎・保土ヶ谷・戸塚・平塚・興津・鞠子・藤枝・日坂・袋井の十一図は保栄堂と仙鶴堂ととも印となっている。ところが、この「岡部」だけは仙鶴堂の単印である。なお、日本橋から袋井までの上揚の宿場の絵以外は保栄堂の単印であるが、これは発売が順に行われたわけでなく、描けた図から発売したからである。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

21.鞠子(丸子)

2010年03月14日 | 広重東海道五十三次
21・鞠子(丸子)
府中から八粁で鞠子の宿である。道は海沿いから別れて山手へかかる。ここの名物「とろろ汁」は、あまりにも有名である。街道に沿っても今も一軒は残っている。広重はこのとろろ汁の店を「名物茶屋」と題して描いている。時は早春、名物とろろ汁の茶見世の軒端の梅も、つぼみがふくらんでいる。裏の畑にも若菜が芽ぐんでいる。

なにもかも、のどかな春の暖かさであるが、この気分を広重はバックの空も薄紅の潰しにしている。それでこの絵の暖かい春の色が象徴されている。芭蕉の「梅若葉まり子の宿のとろろ汁」の句にピッタリの風趣である。また、この店の藁屋根の上にとまっている二羽の鳥、こんな小さな鳥の姿にも、のどかさは満点である。

 さらに、この絵に描かれている人物が素晴らしい。店の中で二人の旅人が、とろろ汁をかき込んでいる、その姿態。また、背に赤子を背負った女房が、汁のおかわりを運んできている。その姿。その情景が実に巧みである。この女房の姿は十返舎一九の「膝栗毛」に描かれた鞠子の、とろろ汁屋の女房そっくりといわれ、広重が「膝栗毛」の文中から情景を巧みにとらえている一例といえよう。また、一人静かに向こうへ行く老百姓の後姿がまたのんびりとして、いかにも春の日の下の野良の人である。私は、この絵を一般が認めている以上に賞讃する好きな絵である。
この絵の地名に「丸子」と記したものと「鞠子」と記したものがあり、初版は「丸子」であるといわれている。地名の鞠子は丸子とも麻利子とも作る。しかし、初版といわれる、「丸子」と記されている絵は非常に少ない。
なお、鞠子宿で有名なのは、とろろ汁の外に柴屋寺がある。この寺は連歌師柴屋軒宗長の庵の跡で、ここで竹の灰吹きを作って売っている。吐月峰と称し知られている。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

20・府中(安部川)

2010年03月07日 | 広重東海道五十三次
20・府中(安部川)
今の静岡市である。江尻から九粁。古は阿倍の市といい、江戸時代になって駿府と改められた。徳川家康はこの地に城を築かせて晩年を送っている。また、近く久能山には家康の廟があるなど、徳川家にはゆかりの地であっただけに、特殊な城下町として繁栄していた。西に安倍川が流れ、広重はその安倍川の川渡しのさまを描いている。画題も「安倍川」とある。広重は「江尻」で純然たる風景画を描いたが、ここでは人間の生活を描いている。人の肩で、蓮台で川を渡る渡河風俗がこの絵の焦点であり、絵も写真も近いと思われ、旅情の実感も豊かである。この人間図に対し、風景画の要素、正面の賤機山は霞で区切って二つの世界を暗示しているかに見えるのも、広重の画境と見ていいであろう。広重は川渡しの有様を、「小田原」「島田」「金谷」でも描いているが、この府中の図も最もその風俗をはっきりと伝えている点で一つの風俗資料ともなる。
阿倍川川畔にある、名物あべ川餅の店は有名で、広重は「行書東海道」でこの店先きを描いているが、この店は今に残っている。
絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

江尻(三保遠望)

2010年02月28日 | 広重東海道五十三次
19・江尻(三保遠望)
江尻は今の清水市である。興津から四.三粁。画題に「三保遠望」とあるように、江尻の港は有名な三保松原で扼された良港で、しかもこの風景絶佳の展望は、久能山・日本平あたりからのものであろう。この絵は完全な風景画である。ただ広重は、彼独特の色彩と構図の処理によってこの風景画を自分のものとしている。画面はほとんどが海である。その海を、近景では港の風情で、中景は入江に突き出ている三保の松原で変化をもたせて湾内の帆船で風情を持たせ、遠景は愛鷹山らしい山なみの遠望から霞を隔てた海上とし、数多くの帆影で静かな海上の賑やかさを見せている。
三保の松原には、この辺の漁夫が天人の羽衣を拾ったという、「羽衣」の伝説があり、この地は三保が崎ともいわれ、海中につき出た岬で、ここの松原が美しく、駿河湾・富士山・伊豆の山々の遠望は大景観として有名である。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

興津(興津川)

2010年02月21日 | 広重東海道五十三次
18・興津(興津川)
薩多峠を下ると街道はまた平坦となって海沿いの明るい光りに暖かい。由井(由比)から十一.三粁、興津宿(従来の解説書で興の字を奥と読むのは誤読である)である。絵は興津川を渡る力士の旅を描いている。川口から駿河湾の静かな海上を見せて、いかにものどかな旅情を見せている。しかも、画題はユーモラスで、力士の姿は馬からはみ出ているし、四人の駕篭かきは力士の重さに足元も、よろめいている。広重の、この五十五枚の続絵の内で旅の厳しさ、悲しさ、面白さ、そしておかしさを取り交ぜて単調さを救っている。この興津川にしても、今日では一瞬の内に列車が通り過ぎる場所であるが、昔の旅にはこうしたのどかな風情もある。
興津には有名な清見寺があり、古くは清見カ関のあったところである。画題は「興津川」で、画題印が白抜きでない。なお、力士の渡河の図は「東海道名所図会」の安倍川の図に描かれている。おそらく広重はここからヒントを得たと思われる。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

由井(薩多嶺)

2010年02月14日 | 広重東海道五十三次
17・由井(薩多嶺)
蒲原をすぎると山は海に近くせまる。この海が清見潟である。古くは海の干潮の時に海岸ずたいに通った危険なところであったが、明暦元年九月に朝鮮から使節がきた時、山を切り開いて街道を通した。これが薩多峠であり、東海一の難所であった。しかし、ここの眺めは、「此所富士山鮮やかに見えて、東海道第一の風景なるべし」と名所記のもある通り、ひろびろと開けた駿河湾、沼津から続く曲汀の眼をみはらす景色であったろう。広重の絵でも、左での峠道の断崖の上からこわごわとこの絶景を眺めている旅人を描いている。
この絵は明るく晴々とした気分の絵として佳作である。構図もよく、近景の岩の上の二本の松がきいている。左に高く、右は海上の真帆がこれをうけ、中央に富士山となっている。また色彩も左手の断崖と近景の岩が濃く、大きく海の藍が開け、富士の白さが中心になっていて配色も爽やかである。画題は「薩多嶺」である。この絵は売れ行きがよかったらしく、異版が出来ていて、海上の船を欠いたり、岩の色を簡略したものもある。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蒲原(夜の雪)

2010年02月07日 | 広重東海道五十三次
16・蒲原(夜の雪)
箱根から、十五.一粁下った宿場が三島である。ここから岐れて天城越えをして伊豆下田をへ至る下田街道が発しているが、東海道と下田街道との分岐点に三島神社がある。この絵はその三島神社の鳥居前、早や立ちの旅人を描いて五十五枚中の準役物といわれる佳作である。廻し合羽にくるまるようにしている馬上の旅人は、まだねむ気が残っているのか、あるいは朝寒か笠の下にうつ向いている。駕篭の旅人も腕を組んでいる。薦にくるまった旅人も見える。そしてこれらの旅人とは反対に街道を下る荷を担いだ旅商人の姿。この一群の旅人に焦点を合わせ、他は一切、背景の神社の鳥居も町並みも、すべて藍と鼠の朝霧の中に模糊としてかすんでいる描写の技巧は、木版画独特のボカシの技術を活用して成功している。ことに、霧の中に遠く影が消えようとしている笠に杖の人と二人の人影はまことに旅愁を思わせる広重の絵の特徴であるセンチメンタルな気分を見せている。画題は「朝霧」とある。
三島神社は、四国伊予の三島明神の分祀されたもので、治承四年八月十七日、神社の神事に際し伊豆へ流されていた源頼朝がこの神社に祈願ををこめて旗挙げをした。そのために鎌倉幕府の異常な崇敬をうけていたという。伊豆の一宮である。箱根の峠を越えた人、また越える人の宿泊地として繁栄を見せた宿場で、三島女郎衆によっても知られている。富士山の白雪がとけて流れて、この三島女郎の化粧水となる、その俚謡もあるくらいで、町には清冽な水が流れている。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉原(左富士)

2010年01月31日 | 広重東海道五十三次
15・吉原(左富士)
原から十二.六粁で吉原宿であるが、原から吉原にかけ、富士の姿が最もよく眺められる。吉原宿から駿河湾田子の浦は程近い。平坦な街道には松並木がつづき、道は曲がりくねって今まで右手に見えていた富士山が左手に見える。これを「左り富士」という。画題も「左り富士」で、左へ曲り、さらに右につづく。曲折する松並木の街道を描き、富士の姿を左手に見せている。馬士が子供三人を乗せていく姿を後ろから描いているのも面白く、先きをいく駄馬と旅人の姿が遠く松並木に見えがくれする構図もなにか道の遠さを思わせている。
右手に見える遠山は愛鷹山であろう。三島・沼津では目前にあったこの山も、ここまでくると、もう右手に去って富士が正面に見えるようになる。松並木は宝暦十二年(1762)幕府が街道を整備して作ったものといえわれる。街道の松並木は、旅情をなぐさめ、日光の直射をさえぎって憩いを与えたことであろう。
なお、この絵には松並木の違った異版がある。絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原(朝の富士)

2010年01月24日 | 広重東海道五十三次
14・原(朝の富士)
沼津をすぎて六粁で原へ達するが、絵は宿場でなく浮島ヶ原のあたりが描かれている。この絵では富士山の偉容が中心である。沼津を出ると愛鷹山が右手に外れ、富士山が大きく中空にそびえて目近く見え、その美しい絶景は東海道をいく人々をなぐさめ、霊峰は人の心をひきしめる。他の街道では見られない風景である。「朝の富士」が画題で、朝日に白雪は紅に染まり、遠い西の空は藍色に晴れている。朝寒むの街道のあたりの沼地には白鷺がおりているのも冷たさを感じさせる広重の手腕は賞讃に価する。人物の着衣と下草だけに見せた藍と草色だけの色彩も、この絵の感じを出す力として大きい。
このあたりは古来歌枕として有名で、数々の名歌が残っているし、江戸時代の名僧白隠禅師の松蔭寺もある。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

沼津(黄昏図)

2010年01月17日 | 広重東海道五十三次
13・沼津(黄昏図)
三島から六粁。沼津に達する。三島の朝霧の図に対し、これは夕方の景色である。画題は「黄昏図」。
広重は、三島では朝の旅愁を描き、沼津では夕暮の感傷を描いている。ここは黄瀬川(木瀬川)沿いの細道、街道から外れた寂しさを見せて、広重の絵の根本ともいうべき感傷性を示している。藍一色の夕空に満月が上がっている。その月明かりの明るさの中に、今宵の宿に重い足を引きずる巡礼の母子と修験道者の姿が、なにか哀愁をさそう。保永堂版五十五枚中、月の絵はこれ唯一枚であり、その効果はこの絵を秀作としているが、三島の朝霧の図より幾分落ちる。というのは左手の川向こうの林、つまり絵の左半分が単調であるからである。しかし風景画に、悲しさ、あわれさという人の心を描き出したこの絵は、広重の芸術を知る上で重要な作品である。
沼津は海に近く、千本松原は海道の名所の一つであり、黄瀬川は治承四年奥州から馳せ参じた源義経と兄頼朝対決の場所でもある。また西海に没した平維盛の娘十二才の六代御前は、この千本松原で首を討たれるのを、文覚上人が命乞いをしたところでもある。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三島(朝霧)

2010年01月10日 | 広重東海道五十三次
12・三島(朝霧)
箱根から、十五.一粁下った宿場が三島。ここから岐れて天城越えをして伊豆下田をへ至る下田街道が発しているが、東海道と下田街道との分岐点に三島神社がある。この絵はその三島神社の鳥居前、早や立ちの旅人を描いて五十五枚中の準役物といわれる佳作である。廻し合羽にくるまるようにしている馬上の旅人は、まだねむ気が残っているのか、あるいは朝寒か笠の下にうつ向いている。駕篭の旅人も腕を組んでいる。薦にくるまった旅人も見える。そしてこれらの旅人とは反対に街道を下る荷を担いだ旅商人の姿。この一群の旅人に焦点を合わせ、他は一切、背景の神社の鳥居も町並みも、すべて藍と鼠の朝霧の中に模糊としてかすんでいる描写の技巧は、木版画独特のボカシの技術を活用して成功している。ことに、霧の中に遠く影が消えようとしている笠に杖の人と二人の人影はまことに旅愁を思わせる広重の絵の特徴であるセンチメンタルな気分を見せている。画題は「朝霧」とある。
三島神社は、四国伊予の三島明神の分祀されたもので、治承四年八月十七日、神社の神事に際し伊豆へ流されていた源頼朝がこの神社に祈願ををこめて旗挙げをした。そのために鎌倉幕府の異常な崇敬をうけていたという。伊豆の一宮である。箱根の峠を越えた人、また越える人の宿泊地として繁栄を見せた宿場で、三島女郎衆によっても知られている。富士山の白雪がとけて流れて、この三島女郎の化粧水となる、その俚謡もあるくらいで、町には清冽な水が流れている。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

箱根(湖水図)

2010年01月03日 | 広重東海道五十三次
11・箱根(湖水図)
小田原を過ぎるといよいよ箱根八里の天下の嶮へかかる。芦ノ湖畔の箱根町まで十六粁。海道一の難所であることはよく知られている。羊腸の山路、亭亭の松並木。旅人は馬の背や駕篭で、また草鞋の足も重く登っていく。そして芦ノ湖畔へ達する。一望にひらける芦ノ湖、遠く富士の白雪、右手に駒ヶ岳、神山、左手に双子山、その裾を街道が通っている。「湖水図」と題されたこの絵は配色の特異さで仏蘭西の印象派に影響を与えたといわれている。その配色の特徴は中央にそそり立つ駒ヶ岳らしい山肌に示されている色彩を用いた絵はない。それだけに広重の絵五十五枚の東海道絵中これだけの思いきった山岳描写と色彩を用いた絵はない。それだけに広重の絵としては特異である。構図的にもすばらしさを見せて、左手に深く沈んだ芦ノ湖の水面、遠山の上に富士が見える。これに対して、右手の峨峨たる重畳の山々、箱根を登りきって箱根町へ下りる道を大名の行列が下がっている姿だけが唯一つの動きとなっている。
小田原から箱根までの間に、俗に箱根七湯と呼ばれる、湯本・塔ノ沢・堂ヶ島・宮の下・底倉・木賀・芦ノ湯の温泉の行列があり、古くから今日まで繁栄を見せている。また芦の湖畔には箱根神社があり、宿場町には本陣、脇本陣の外、旅宿が多かった。元来、箱根越えには足柄峠を通る道と芦の湖畔を通るのと二つの道があったが、江戸幕府は元和四年後者を本道と定め、江戸の入り口ともいうべきここに有名な関所を設けて通行人を取り調べた。ここを通行するのには手形必要とし、特に「入り鉄砲に出女」といって、銃器が江戸へ入ること、江戸に人質として置かれた大名の妻女の脱出、また女人に託しての密書の防牒のために厳重に改めが行われた。
絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』