ディスカバリー伊豆

伊豆の美しい自然と貴重な歴史物語を徒然なるままに気の向くままに綴りたいと思います。

河津三郎祐泰の血塚

2015-12-11 | 八幡野・赤沢地区


河津三郎祐(すけ)泰(やす)の血塚(曽我兄弟物語の発祥地)

伊東市八幡野と赤沢地区の境界線にほど近い森の中に(国道135号線の山側の別名“東裏路”と呼ばれる旧下田街道)河津三郎祐泰の血塚があります。
今から大よそ840年前、河津三郎祐泰が刺客の弓矢によってここで命を落とした所です。
当時、伊東の地を治めていたのは伊東入道祐親、その長男が河津三郎祐泰で伊東の南、河津の地を治めていました。
1176年、伊東祐親は伊東(奥野)で大々的な狩を催しましたが、その時余興として相撲退会を行いました。一番の人気を呼んだのは剛勇無敵と言われる河津三郎祐泰と剛力を誇る俣野影久の取り組みでした。影久は工藤祐経と言う武将の秘蔵の家来でしたが、実は伊東祐親と工藤祐経は親戚関係でありながら領地争いが絶えず、常に睨みあっている関係にありました。工藤祐経は「これはいいチャンス」とばかり剛力の俣野影久に河津三郎祐泰を投げ殺してしまう様密かに企みました。ところが相撲の結果は逆で俣野影久は河津三郎によって投げ飛ばされてしまいました。無念やる方なき祐経が、そのままで納まる筈はありません。闇討ちと弓矢の名人八幡の三郎、大見小藤太の二人の家来に言い付けて赤沢山(伊雄山)麓の谷間で待ち伏せさせ河津の館へ馬で帰る河津三郎祐泰を遠矢にかけて射(い)殺したのです。そして後の世に、その場に河津三郎の供養の碑として建てられたのがこの血塚です。

河津三郎には長男の一万と次男の箱王と言う二人の子供がおりました。二人は母と共に下曽我(現在の小田原近く)の曽我家に逃れ、名前を曽我五郎、十郎と改めました。
それから18年の歳月が過ぎ二人は元服し立派な武士となりました。建久4年(1193年)鎌倉幕府源頼朝が催した富士の巻き狩りの折、工藤祐経の陣屋に忍び込み、首尾よく父の仇を討ちました。これが日本3大仇討ちの一つ“曽我物語”であり、その発祥はこの様に伊豆八幡野の山陰に端を発していたのです。

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