private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第16章 6

2022-10-23 14:45:53 | 連続小説

 マリの鼓動だけが伝わっていた。ホームストレートを走るクルマのエギゾーストノートが耳に届いても、その心音を消し去ることはなかった。
 誰かのためを想って行った行為でも届かないこともある。却って反発を呼ぶことさえも。信じたいのか、それ以外を選択したいのか、それは自分の判断次第であるのに、それを相手にせいにしてしまうことにもなる。
 ふたりのそれぞれの想いが一致したのは、お互いがそう信じると選んだからで、それが後から考えれば安易にノボセあっがったからだけの単純な思考の結果だとしても、いまのふたりにはそれだけが真実であった。
「オレさ、こうしてたいのは山々なんだけど、そうにもいかないんだ」
 袖を引っ張られたナイジは、そのままマリに引き寄せられていた。自分の胸の中でしゃくりあげるマリを大切にしたくても、いつかは踏ん切りをつけなければならない。
 マリも感傷に浸っている時間はないとわかってはいる。だとしてもすぐに次の行動に移せるほど気持ちは落ち着いていない。
「あっ、んっ」なんとかそう吐き出して、細かく震え続けるカラダを離す行動に移ろうと力を込めるマリを見て、ナイジは何度も背中をたたいたり、さすったりして落ち着かせようとする。
「わかった、もう少しな。できそうになったら言ってくれ」
 ゆっくりと深くうなずくマリの、その髪がナイジの胸を引きずっていき、深くこうべを垂れたところで動きが止まる。ナイジはそこでグッと抱きしめたくなるところを懸命に堪えた。
 そうしてようやくマリは腕を伸ばしてナイジからカラダを剥がしていく。泣きはらした目をハンカチで拭い、ハニカんで見せた。のどの奥が痛み、何度もむせるようになってしまう。
「悪いな、ムリ言って」
 切り出してみたもののマリのそんな姿を見れば、あまりにも無情すぎ、すぐには切り出しづらい。マリは小さく首を振ってナイジの言葉を待っている。
 ナイジはオースチンの天井を見上げ、しかたなく謎掛けのように言い放った。
「マリにさ、オレの左手になって欲しいんだ」
 助手席のシートが軋み、ズズッと革の擦れる音がした。
「えっ?」
 話しの見えないマリに、ナイジは上着の袖を引き上げ、左手を露出させた。日焼けを防ぐためではなかったことが露呈する。
「ナニこれ?! どうしたの?」
 青黒くアザになっていた手首を見てマリは驚きの声をあげる。
「あのさ、オレの左手、思うように使えねえんだ」
「はっ?」ナイジの言わんとするところがつかめない。
「先週のクラッシュのとき、痛めちまって。だから、オレ、マリのこと言える立場じゃないんだ」
 ナイジにもそれなりの理由があったうえで、そのことを黙っていた。それを許すかどうかは、マリに委ねるしかない。
「そうだったの」それ以上は何も言えなかった。
 単純に自分と比較するつもりはない。この状況になっているのにはそれなりの理由があるのだろう。いろいろな想いがマリのアタマをめぐった。
 確かなことは志藤もわかっていたはずで、それなのに先週も、今日も、治療どころか言葉にもしなかった。つまりはそういうことなのだ。そして自分がここにいる訳が少しづつ飲み込めてきた。
「いろいろとあってさ。治ると思ったんだけど、シフトチェンジとかしてたら悪化しちゃって。で、マリがオレの左手になる、ってことで。どう?」
「どう? どうって… 」
「だってさ、最初から言ってたら、二の足踏んで、ここまで来なかったろ」
「それは… でも、それならリクさんや、ジュンイチさんの方が… 」
「あのさ、今回のレースはそれじゃあ意味がないんだ。アイツらを巻き込みたくないってこともあるけど、それよりなによりマリでなきゃ意味がないんだ。オレはオマエと一緒に闘って勝たなきゃならない。でなけりゃ、今日、このレースをする意味がなくなっちまう。それがオレが出した答えなんだ」
 ナイジが言いたいことは理解できた。今回の騒動の幕引きをするために、目に見える結論をふたりで出す必要がある。そうでなければナイジは闘うための拠り所が見つけられないし、ここまで巻き込まれた大きなうねりに決着がつけられない。
 それは、今でなければならないことであり、同時にナイジがマリを幸運の女神として、そこに賭けてみたい弱さも少なからずあった。
「それにさ、リクさんやBJじゃ体重あるだろ」「えっ、体重?」
「まさかふたりより重くないよね? あっ、イテっ!!」
 マリの右手がナイジの頬を引っ張っていた。
「あっ、ゴメンね。左手にしとけばよかった?」
「いや、すごく素早い反応だ。これならシフトチェンジも安心して任せられる」ふたりは笑いあった。
「シフトチェンジって、つまり、アタシが運転した時にナイジがしてくれたことの逆をするってことね。 …って、これレースでしょ。そんなことアタシに出来るわけないじゃなーい!?」
「ハハッ、ひでえノリ突っ込みだな。そうだな、その感じのほうがいいよ、マリは」
 そう言われてもマリにはナイジの本気度がわからなかった。冗談を言うために自分をここまで引っ張ってきたわけではなかろうが、それでレースをすると言われてハイやりますと返答するほど簡単ではない。
「心配するなよ、それほど動かないわけじゃない、マリはこうして、ギアノブを握っててくれ」
 ナイジの手が添えられた。少しの衝動とともに覆われた手から強い熱量が伝わってくる。
「オレが動かす方向へ、少しだけ力を込めてくれるだけでいい。そうすればオレは闘えるから」
 いまのままでは闘いを諦めなければならない。そう暗に匂わされれば力になりたい気持ちも高まってくる。
「そんなふうに言われると、なんだか出来そうな気持になってくる。変なものね」
 それが大事だとばかりにナイジは人差し指を立てる。
 クラッチを切った状態で、シフトアップ、シフトダウンを繰り返す。ナイジの意図する方向へマリも一緒になって力を込める。たしかにこれならそれほど無理な感じはしない。
 ただ実際のレーシング状態で、どれほど精確にスピードを殺さず、通常ナイジがやっているように、自分の意のままに操ることができるのかまでは、この時点では想像すらできない。
 さらにいえば随意筋で操作している範囲ではある程度ついて行けても。刹那的な判断、ひらめきの部分で咄嗟に脊髄が反応するような不随意筋が動いたとしたら、どれほどナイジの動きを妨げずにアシストできるのか。
 その小さな、たったひとつの誤差によるミスがレースの勝敗をわける致命傷になるとわかっているはずだ。
「それでね、いまからオレがヤルことになにも訊かずにつき合って欲しいんだ。その、つまり、いちいち説明してる時間がなくてさ」
 豹変するナイジの真剣な表情を見て真剣な話しだと身を正てうなずく。ナイジは勇気づけるようにマリの目を見た。もう言葉はかけない。自分についてきて欲しいと想いを託す。
 ナイジはドライビングポジションを決めて目を閉じる。そうしてオースチンとつながっていき、マリの存在を消してく。
 スタートフィニッシュラインに立つ、オースチンを俯瞰でとらえる。レッドゾーン付近で上下する針が次に上がるタイミングでクラッチをつなぐ。
 2、3、トップとシフトアップして鋭く加速していくオースチンは、一気に1コーナーに差し掛かる。次に3、2とシフトダウン。イメージ通りにスムーズにシフトゲートに入っていく。もはや手首の痛みへの意識は消えていた。
 そこから改めて見直した今日の路面を思い出し、考えていたラインに挑んでいく。スロットルを戻して、シフトダウン。ブレーキを軽く踏みながらステアを左へ。荷重が左フロントにかかる。前タイヤがよじれ、後ろタイヤがスッと流れる。
 コーナーの出口が見えてくると同時に後ろからパワーが伝わってくる。途切れ途切れだった動作が、なんの切れ目もなく気持ちがいいほどにつながっていった。
 こうしてナイジは新しい領域の世界に入り込んでいった。それはマリの手のひらの中にすべてをゆだねていくことで得られた新たな空間だった。コーナーを駆け抜けるためにシフトノブを手にするたびに新しい力が自分に注がれていく。
 いつもなら、走った後に感じていた破壊された細胞が再生されていくときの温かみに包まれる感触が、同時進行的に行わている。
 いくつものコーナーをクリアしていき、すべてが終わったあと、ナイジはうっすらと汗をにじませシートにぐったりと身を任せた。
「 …ナイジ、 …ナイジってば」
 遠くから聞こえるマリの声がナイジの意識を呼び覚ましていった。
「どうしちゃったの? 目を閉じたとおもったらだんだん息があがってきて… 」
 ナイジが意識の中でオールドコースをラップしていたのは、マリの時間ではたった数秒のことであった。それほど深く、濃密な時間を一瞬のあいだに経過したことで、ナイジの息は上がり、発汗を促していた。
 ドライビングシートに視界が戻ってきたナイジには、まだあの不思議な感覚がカラダに残っていた。これまでにないオースチンとの一体感と操舵性。なにが起こったのか自分にもわからないでいた。
「わからない、よくわからないけど、もしかしたら奇跡が起こるかもしれない」
 ひとりで興奮気味のナイジにマリはまったくついていけなかった。
 このタイミングで満を持したようにピットレーンには空気を震わすサイレンが鳴り響く。スタンドには一瞬の静寂が広がり、そして、徐々に歓声が高まってくる。
 サイレンが鳴り切る頃には人々の身体には痺れが走っていた。本戦がまるで前座の扱いを受けている。それはレース関係者の望むところではないとしても、今日この日に限ってはしかたがないだろうと、そんな雰囲気に誰もが承知せざるを得なかった。
 ナイジの意思を汲んだふたりは、ガレージの左右からシャッターを上げはじめる。まばゆい太陽光を遮るようにして多くの人の影が目の前に現われた。
 マリは助手席に背筋を伸ばし、自分がこのまま人目に曝されていいものかナイジを見た。
「悪いな、身を沈ませて、これ被っててくれ」
 シートの後ろからシーツを取り出すと、マリにかぶせた。
「アッ?! もう、ビックリした。まさかこのタイミングで押し倒すつもりじゃないでしょうね?」
 シーツから顔を覗かせるマリ。紅潮した頬に目が笑っていた。
「上等、上等。そんな減らず口叩けるんなら。とにかくグリッドまで隠れててくれ。見つかったら引き摺り下ろされちまう」
 ナイジは素早くエンジンに火を入れ、思い切ってスロットルを踏み込むと、回転計器の針は一気に跳ね上がる。それでも揺れ動く人垣は無節操にいまだガレージの出口を覆い尽くしている。
 高らかなエンジン音を発し、スキール音を鳴らしてガレージを飛び出す。それが合図となったのか蜂の子を散らすように人波は散開していった。
 大一番にのぞむドライバーの心境を垣間見ようと、ナイジの顔を見るべく再びギリギリの場所までクルマに近づいてくる。
 取り付く者達を押しのけるように、オースチンをうねらせ、しかしスピードは緩めず、当たっても構わないぐらいの意思を持ってピットレーンを進んでいく。
 人々の群れが左右に引き裂かれていくのは幕開けにふさわしく、まさにショーのはじまりを告げる光景がスタンドから見ることができた。