SCENE 22
「ヨーコちゃん、このごろどうなの? 仕事はうまくいってる?」
顔を伏せたまま、少し間を置いてから首を横に振る瑶子。ふたりは総合駅で落ち合い、駅裏へ通じる西玄関口へ向かった。
「なんだよ、やっぱりそうだったんだ。この頃逢える時間なかなか取れないし、どうしたのかと思えば。やめちゃえばいいよ、そんな仕事。実家の饅頭屋だってあるんだし、そっちの手伝いしてたほうがいいって。おなじ客商売なんだしさ、いやな思いしてまで無理して続けることないって」
今度はすぐに首を横に振った。ようやく一通りの仕事を覚えて、時間はかかるが人並みに仕事もさばけるようになったばかりだ。それに、仮に別の理由で辞めるとなっても、これまで幾度も迷惑をかけてきた職場の人たちから、何を言われるかわからず考えただけでも寒気が走った。
「だってさ、平日どころか、このところ土日も休んでないじゃない。こないだだって、日曜出勤だと思ってなかったから、ニシキんところで遅くまで付き合わせちゃったし。今日だって、10時まで仕事してたんだろ。これじゃ家に送ってくあいだしか逢えないじゃない。あっ、逢えないことに文句言ってるわけじゃないよ。ヨーコちゃんのからだが心配で言ってるだけだからね」
新しく発売された携帯端末の売れ行きが好調のため、時間内で来客を捌ききれないほどの込み具合で毎日残業続きであり、人手不足から土日の臨時出勤を毎週のように依頼されていたと、戒人を安心させるために、みんながそうで自分だけではないことを強調してみた。しかし本当のところは、土日の出勤は担当者のあいだで持ち回りになっているはずが、つねに瑶子だけが休みがとれないでいたのは、先輩や、後輩が瑶子の休みを前もって押さえてしまい、有無を云わせず自分たちの臨時出勤の代出をさせていたからだ。
瑶子も自分がこれまで仕事でさんざん迷惑かけていたこともあり断ることができない。そもそも断る行為自体ができない。それに次々と出る新製品の仕様を覚えるのに、通常の出勤だけではまかないきれず、ひとより多くの時間をかけてようやく最低限務まるのも事実で、覚えるのにちょうどいいですよね、と後輩から言われても、苦笑いしてうなずくしかなく、それがまたいいように遣われる一因になっていく。
「そりゃさあ、ダメだろ。いわるゆるブラックなんちゃらとか、グレーなんとかってヤツだ。別にさあ、そんなにムリして頑張らなくてもいいよ、人それぞれなんだし。ヨーコちゃんは、ヨーコちゃんの領域ってもんがあるんだからさあ。みんながみんな、なんでもできちゃう必要なんてないんだよ。そんな世の中だったら生き辛いだけだし。 …オレはとても耐えきれそうにない」
その言葉が出たのは、世界の女性がすべて恵であると想像してしまったからで、言いながら背中に悪寒が走った。それほど毛嫌いしているのに、このごろお声が掛からないというか、ついに相手にされなくなっていることに少し寂しさを感じており、それはそれで自分がよくわからない。それなのに瑤子には意見している。
戒人が自分の世界に入っているあいだ。瑶子は戒人の言葉を噛みしめていた。戒人はだいたいにおいて、笑い話のたぐいしかしゃべらないが、瑶子が困っているときは、どこから仕入れたのかそれなりに説得力のある話を持ち出してくる。ただ、少し的がはずれていたり、言葉を違ってつかったり、そこは戒人らしく御愛嬌といったところか。
励ましの言葉は、小学生の時から何度も耳にしてきた。まわりが瑶子をノロさや、鈍さをバカにしても戒人だけは笑ってかばってくれた。何度もそんな言葉に助けられてきた。それと同時に、すがってばかりではいけないという思いが足枷になって、余計に無理をしてしまう要因になっていた。
それだからこそ、自分の弱さを克服しようと、就職と同時に入った料理学校も、英会話教室も、仕事の忙しさとともに、そしてただ自分の限界を見せつけられるだけと知り、いつしか足も遠のき中途で解約していた。社会人になったタイミングで自分を変えようと思った行動は、ことごとく裏目に出て、学生生活より多忙となったこともあり、手に余ることがひとつひとつおざなりになっていくのがなんとも情けなかった。
「そうなんだよ、ヨーコちゃん。荒波をまともにかぶるような場所にいちゃダメなんだ。人間なんてもんはね、弱いヤツにはとことん強く出るようにできてるんだから。そうでなきゃ自分が一番弱い人間だって認めることになっちまうし、そうすれば自分が標的にされるだろ。少しでも自分より弱いヤツを見つけて、それでようやく自分が生きていけるって安心できるんだ。だから徹底的に自分の強い立場を見せつけようとするし、そんなヤツらが集まって寄ってたかって自分じゃない誰かを餌食にする。エクセプト ミー メイビー …たぶんオレ以外は」
戒人には言うべき言葉があった。けれどもそれを避け、あえて時間をかけて別のはなしを続けていた。いつかは知らなければならない結論を知るのが怖いし、それに対する答えも用意できていない。なにかと腕時計に目がいく。いつも二人で歩くと、たまに瑶子が早歩きして戒人に追いつくなんてこともよくあるのに、今日は戒人の方が歩みがのろいぐらいで、瑶子にとっては息もはずまず、楽ではあった。
「だけどさあ、それよりもっとタチが悪いのは、弱い人間に優しくするヤツだ。コイツらはそんな自分に酔ってるだけだし、優しいのは周りに目があるときだけだ。実際にはなんにもしやしない。弱い人間を自分の手元に置いておかないと落ち着かない、それによってはじめて自分を知ることができる。だから下手に頼ったりして許容以上を求められると逆ギレするから手に負えないんだ。 …エクセプト ミー アンド マイ モンキー …たぶん、オレら以外な」
それについては瑶子も覚えがあった。入社したての頃、みんなの前でなんでも困ったことがあったら、いつでもいいから遠慮せずに相談してねと先輩に言われた。
高校の時も学級委員長に同じことを言われていた。クラスで孤立している瑶子に気をかけての言葉で、まわりも好意的にうなずいていた。後日、内気な性格のことを思い切って相談してみたら、結果として弱味をみんなに言いふらされただけで、翌日から教室の雰囲気が変わり、さらに疎外された存在になっただけだった。委員長の言い分としては、あなたのことをみんなに知ってもらえれば仲良くしてもらえると思ってと、薄笑いしながら言い訳がましく言われた。
そんないやな経験もあったが社会人の先輩ならと、自分のことではなく仕事ことで、こんなときはどうしたか経験談を聞かせてもらおうと尋ねたら、そんなことぐらい自分で考えなさい学生じゃあるまいしと、一刀両断にされた。そのあと、給湯室で瑶子のダメさ加減を言いふらしていたのを偶然耳にしてしまった。
それ以来、先輩に仕事のアドバイスを聞くこともできず、自分の不出来もさることながら、いつしか後輩にも追い抜かれ、現在のありがたくない地位が築かれてしまった。それはいつの時代も同じだった。このままではいけないと思い、なにかを変えようと、もがいてはみるものの、いつも待っている世界は同じ風景をしていた。
そんなめぐりあわせも、うまく立ち回れないのも、結局は自分がまねいているのだとわかっていた。まわりを恨む気にもなれず、弱気な生き方がますます自分を追い詰めていく原因だとわかっていても、それを打破する術はなにも持ち合わせていなかった。
もう、心から戒人にすがってもいいのかもと揺らいでいた。いつだってそうだった。切羽詰まった時にいつも心をほぐしてくれるのは戒人だった。相性なのかもしれない。それでもそれがあるのとないのでは天と地ほどの差があり、ここまでなんとか生きてこられたのも、それがあったからといっても言い過ぎではないはずだ。そんな時に仁志貴から思いもかけない言葉を聞かされた。
「それでさ、ニシキはどんなタイプなんだろうな?」
瑶子の心臓は跳ね上がった。いまは別の所に追いやれていた、このあいだの言葉があたまの中を凌駕していった。
鈍い瑶子でも薄々は感じていた。仁志貴が自分に好意を寄せているのではないかと。ただそれは、友情以上、同情未満だと自分に言い聞かせてた。そうでなければ割り切れないし、戒人に合わせる顔もない。あくまでも、自分が弱く情けない人間過ぎて、どうにも見ていられないものだから、戒人の友人として気にかけていてくれるだけ、というスタンスをくずすまでの余力は持ち合わせていない。
戒人は立ち止って、からくり時計を見上げていた。めぐりあいの広場の天井からつり下げられている時計は、からくりの騎兵隊が露出したままになっており、雨漏りからの錆やら油や埃でほとんどゾンビ化しており、スリラーのPVを思い起こさせる。なんとか時刻を刻むことは続けられているようで、現在11時5分前を指しているので、それほど大狂いはしていない。
「誰かがメンテしてんのか… 」
もしかしたら11時5分前で止まっているのかもしれないと思い、瑶子も時計を眺めていた。
「あっ、動いた」
戒人も同じことを考えていたらしい。お互いを見て笑った。社会人になってからも戒人は、こうして自分を心配して声をかける時間を作ってくれる。これを付き合っているというのか、自分からは決められなかった。戒人はそう思っているだろうし、楽しみにしてくれているなら否定できない。そして、その関係性が変わらないうちは仁志貴との関係も変わらないはずだと自分に納得させていた。
それが突然、降って湧いたように、戒人から奪い取る宣言を、それも商店街の夏祭りで何か知らないが勝負して決めるらしい。自分がそんな立場になると思ってもいない瑶子は了承するも何も、ただ強固に言い含められただけだ。
「はあ? 勝負うぅ? 奪い取るうぅ。なんだよそれ、どういうつもりだ、ニシキのヤロウゥ。オレからヨーコちゃんを奪うなんて。どうかしてるぜ。どうかしてるだろう? どうかしてるよねえ? ねえ、どうしてなんだろう?」
戒人に尋ねられても自分でさえよくわかっていない状況で答えることもままならず、ただ首をかしげるしかない。そんなことはこれまでもなんども繰り返していた。一向に成長していない自分と、周りからの想定外の期待と同じぐらい必要以上のプレッシャー。小さな瑶子には収まらないほどの問題があふれている。それもこれも自分の身も心も小学生のころから商店街から一歩も外に踏み出せておらず、逃げ帰る場所として戒人と仁志貴に守られているホームタウンを拠りどころにしているなによりの証拠だった。
「ヨーコちゃん、いいよ、いいよ、そんなにぜんぶ受け止めなくたって。いちいち自分に降りかかってくる粉をぜんぶ受け止めてたら埋もれちゃうからさ。なっ」
多分、火の粉のことだ。瑶子はつぶれそうだった心持ちが少し楽になった。戒人のいいかげんさも役には立っている。
そうこうしているうちに瑶子の家、饅頭屋の折原に着いていた。看板の手前で戒人は足を止める。瑶子もそれにならう。時間も遅いので、いつまでも家の前で話し続けるわけにもいかない。それなのに、言葉が続かずなんとももどかしい時間だけが流れていった。
その間(ま)に耐え切れず、瑶子は帰りの電車に一本乗り遅れてしまったことを謝った。そのために総合駅に着くのが20分遅れてしまい、それがなければもう少しは時間がつくれたのに。それも、もとをただせば、明日の出勤もあるのでショップの戸締りを命ぜられ、さらに化粧直しをする後輩を待つ羽目となり、その分予定してた電車に乗ることができなかった。急いでは向かったものの、つまづきそうになるたびに足が止まってしまった。すべてが後手にまわり自分のせいで迷惑をかけていることがなんとも申し訳がなかった。
「はは、急ぐことないって、乗り遅れたんじゃなくて、乗り急がなかっただけだよ。みんな急いで大変だよな。そのくせ時間ばかり持て余して、暇つぶしすることばかり考えているだろ。だからさ、いまある時間だけ大切にすればいいんだよ。どんなことにだって意味がある、必要だからこそ電車に間に合うし、必要だからこそ電車に間に合わない。つかえる時間は同じ、あとはどう思うか、どう使うか。だろ? タイム イズ マネーってやつだ」
最後のたとえはおかしい。
「大丈夫、オレ、絶対にヨーコちゃんを手放さないから」
瑶子がその言葉に顔をあげると、めずらしく真顔の戒人が夜空を見上げている姿をしていた。見上げる先に夜空はなく、錆びたアーケイドが風で軋んでいる。瑶子もそれを見上げた。
――どんな手をつかっても…
小さくつぶやいた戒人の言葉は瑶子には届いていなかった。どうするつもりなのか、自分を含めて、悩んでも明日はやってくる。気楽を装うも、問題に安住するも、逃げでしかない。答えは自分で出して最善の結果を得ると信じるだけだ。