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マクロス外伝大本営 新統合軍極東太平洋軍管区司令部

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伊達秀宗

2017-10-08 16:29:08 | 戦国武将・戦国姫図鑑
伊達秀宗
【諱】
秀宗
【苗字】
伊達
【朝臣】
藤原
【生没】
1591年ー1658年
【通称】
兵五郎
【父親】
伊達政宗
【母親】
新造の方
【兄弟】
伊達忠宗
=(仙台藩2代目藩主)
伊達宗清
=(吉岡伊達家初代当主)
伊達宗泰
=(岩出山伊達家初代当主)
伊達宗綱
=(岩ヶ崎伊達家初代当主)
伊達宗信
=(兄宗綱の養子:断絶)
伊達宗高
=(村田伊達家初代当主:断絶)
伊達竹松丸
=(早世)
伊達宗実
=(伊達成実養子)
伊達宗勝
=(一関藩:伊達騒動で改易)
五郎八姫
=(松平忠輝室)
牟宇姫
=(石川宗敬室)
岑姫
=(伊達宗実室:伊達定宗の子であり兄とは同姓同名の別人)
千菊姫
=(京極高国室)
津多
(原田宗資室:落胤)
亘理宗根
(亘理重宗養子:落胤)
【正室】
徳興院
【子息】
伊達宗実
伊達宗時
伊達宗利
伊達宗職
伊達宗純
伊達徳松
伊達宗則





渡辺左衛門室
【解説】
次期伊達家当主として
伊達政宗の長男として陸奥国村田城に生まれる。
正室愛姫に子供が生まれず、兵五郎は次期伊達家当主として周囲から見られる。
3歳で豊臣秀吉に拝謁し伏見城で教育される。
秀次事件で豊臣秀次ら一派が粛清されると、伊達政宗にも連座の風が来て。
政宗は隠居し兵五郎が相続し伊予国に国替えされかけるが、徳川家康の助けで中止になる。
1596年に秀吉から秀を偏諱で貰い伊達秀宗と名乗り、豊臣姓を与えられる。
関ヶ原の戦いでは西軍宇喜多秀家により人質になるが、東軍が勝利し解放される。
次男忠宗が誕生
伊達政宗の正室愛姫が35歳にして次男虎菊丸が産まれる。
当時としては高齢出産であったが、無事に育ったため。
江戸幕府初代将軍になりたての徳川家康に拝謁し秀宗の立場が微妙になる。
家康の命令で徳川四天王の一人井伊直政の亀姫と結婚し徳川陣営に組み込まれるが・・・・
1611年、虎菊丸が元服し徳川秀忠の忠を偏諱で貰い伊達忠宗と名乗る。
結果、秀の字が徳川政権下ではふさわしくないとし廃嫡される。
宇和島伊達家の成立
豊臣秀頼と対決する大坂冬の陣にて弟忠宗と宗根と共に初陣を飾る。
その後豊臣氏が夏の陣で滅びると宇和島10万石が与えられ別家を立てた。
父政宗の選りすぐりの家臣1200名を与え仙台藩から6万両を借金している。
別家を立てた秀宗であるが、本家仙台藩の支藩扱いを嫌っており。
3代将軍徳川家光との御成之では忠宗より上座に座っている。
伊達本家との決別
1620年.家臣山家公頼一族が政敵桜田元親の襲撃による虐殺事件和霊騒動が起こる。
幕府や父に報告しなかったため勘当(親子の縁を切る)され、更に老中土井利勝に宇和島藩の返上をしようとした。
つまり言うならば改易処分であり、それほどまでに政宗は激怒していた。
(実は政宗からすれば秀宗を思っての芝居であり、こうした活動で宇和島藩の改易を防ごうとしていた。)
結局、取りやめたが・・・・・・・
そもそも山家公頼は本家側の人間で事あるごとに口を挟んだためうっとおしい人間であり。
秀宗的には山家一族の虐殺事件は都合のいいかつ、どうでもいい事であった。
その後、秀宗は政宗と面会し仙台藩を継げなかった事や長期にわたり人質生活を送った恨み父に告白する。
この告白により政宗は秀宗の理解し親子の仲は修復される事になる。

秀宗はこの事件以降自身の悪い癖であった浪費癖(山家が主目的にしていた事)を改め藩政に尽力する事になり。
死から5年前に山家のために和霊神社が創建される。
秀宗の最期
勘当が解けてからか、政宗と和歌を楽しんだり唐物小茄子茶入と柴舟を送られるなど関係はよくなり。
政宗が死去すると、仙台まで赴き次男宗時と共に参列する。
なおこの2点の品は秀宗以降の家宝となる。(宇和島市立伊達博物館の特別展で見れます。)
天草四郎による島原の乱では、幕名により藩兵を出兵。

1537年に発病し、嫡男宗時(宗実は自ら退く)が藩政を代行。
1653年、宗時が死去.三男宗利が次期当主になる。
五男の宗純が伊予吉田藩として支藩を立て、宇和島7万石.吉田3万石と言う構図になる。
(なお藩政改革で宇和島藩が10万石と成長し、吉田藩は独立するが・・・宇和島藩が疲弊した時は実質宇和島藩は吉田藩の支藩的存在と逆な立場に変わってしまったらしい。)
1658年、秀宗.江戸藩邸で死去:(享年68歳)
【人物として】
・藩祖としては尊敬されず、銅像はない・・・・・理由としては秀宗は名君となるも伊達宗紀と伊達宗城が名君として有名になり、影に隠れたためである。
・度胸があり参勤交代で船が転覆しそうになっても慌てずに少しも騒がず平常心を保っていた。。
・秀頼と取っ組み合い遊びをした時、踏みつける際に懐紙を取り出し直に踏まなかったため秀吉と淀殿に感心される。

【山家事件の山家一族の被害状況】
山家公頼=討ち死に
山家喜兵衛=仙台にいたため難を逃れる。
山家次男=斬殺
山家三男=斬殺
山家四男=井戸に投げ込まれ殺害
塩谷父子(3名)=全員殺害
母=難を逃れる
妻=難を逃れる
山家公頼と桜田元親の対立
大坂城修繕普請の際に藩の運営が原因で両者は対立する。
元々五月蠅い公頼であったため秀宗は桜田を重用し謹慎するが。
桜田はそれで満足せず何度か公頼を殺害すべく茶坊主による毒殺未遂事件が起こった程である。
そして事件当日、部下が大坂で普請中の桜田に無断で襲撃事件を起こす。
結果政宗は激怒し、宇和島藩の改易危機になり秀宗は妻の実家井伊家当主井伊直孝らを通じて釈明する結果になった。
私怨目的ならば桜田家は潰されていたが、なんとか江戸末期まで続く事になるのだが。
桜田元親は政敵を倒して栄華を誇る事になるのだが、長くは続かず金剛山正眼院の一部が落ち圧死している。
【戊辰戦争時の宇和島藩と仙台藩】
この頃の当主で藩軍の近代化.藩政改革をし名君として有名になった伊達宗城は新政府に加わり議定に加えられる。
心情的には徳川よりのため辞任する事になる。
そして戊辰戦争が勃発し旧幕府勢力が輪王寺公法親王(後の北白川宮能久親王であり竹田宮などの皇族を輩出している)を擁立し奥羽越列藩同盟に本家仙台藩主伊達慶邦が加わった。
宗城は仙台藩が存続できるように降伏を勧める使者を送るなどと奔走し、28万石にされるだけで済んだ。
(岩出山伊達家の伊達邦直と邦成兄弟らはその後私費を投じて旧臣らを北海道移住を勧める事になる。)

伯爵どまりであった仙台家に比べ宇和島家は侯爵になるなど地位的に上回る事になる。
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