天皇の「生前譲位の表明」は、天皇家はもちろん、安倍自公政権にとっても、象徴天皇制についての主権者国民の意識状況を知るためのものであった。天皇が自ら行った一種の世論調査である。それはいわゆる敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国で発揮した「天の声」の威力を今日の国体・民主主義日本で改めて試す意味もあった。
「国営オカルト集団」である天皇家を、象徴天皇制の名の下に存続させる事が日本の将来にとって良いことなのだろうか。
主権者国民が憲法において主権者国民の象徴と定めている天皇家が、主権者国民が共有する科学的な学術研究成果に基づく歴史認識を認め共有しない集団であるという事、また、一種のオカルト集団でしかない存在であるという事であれば、主権者国民として放置できない重要な問題である。
しかし、そのような集団である事を「象徴する行為」、つまり、神武天皇没後2600年を祝う橿原陵墓参拝を実施した。つまり天皇家では神聖天皇主権大日本帝国政府が祝祭日とした、「神武天皇祭」を実施しているのである。神武天皇は今日の科学的研究によれば実在を否定されており、今日学校教育においてもそのような指導がなされている。それが主権者国民の共有する歴史認識であり、天皇家の行為は主権者国民が求めたものではない。もちろん、このような参拝行為は世界では理解できない非常識な行為そのものでもある。天皇家は国民の税金で象徴の地位におりながら、主権者国民の共有する歴史認識とは異なる、またそれを否定する行為を行う集団、「国営オカルト集団」という事になるのではないか。とするならば、このような天皇家を今のままで放置しておくべきではないという事になる。また、この天皇家を利用し政権を握る安倍自公政権も放置すべきではないという事になる。
最近では、「生前譲位」の意思を主権者国民に訴えているが、その「お言葉」で訴えている苦悩の内容は、天皇家自らがもつ上記のような矛盾した体質を原因としたものであり、それによる自縄自縛状態が生み出したものである。その苦悩を解消しようとするならば、天皇家がその地位の正当性を「古事記」「日本書紀」の思想に依り「神の裔」(昭和天皇の「人間宣言」は「現御神」である事は否定したが、「神の裔」である事を否定したものではない)であるとする事をやめ、科学的な研究成果に基づいた歴史認識を受け入れる事が必要である。そして、神聖天皇主権大日本帝国政府が権力を用いて作り上げた国営新興宗教である「国家神道」の中核として再整備した皇室神道(宮中祭祀)もやめる事である。併せて全国にある護国神社などとのかかわりもやめるべきである。
それをそのままにしておいて、象徴天皇制を今後も継続したいと望んでいるならば、それは主権者国民の思いとはかけ離れたもので、憲法を認めない、天皇家の利己的な考えだけで天皇制の存続を望んでいるという事であり、主権者国民の象徴としての資格があるとはいえず、主権者国民の理解を得る事は不可能である。
主権者国民は、国民の税金で存続する皇室という「国営オカルト集団」への対応をもっと真剣に考える必要がある。また、「国営オカルト集団」を存続させ利用してきたこれまでの自民党政権や、現安倍自公政権に対しても厳しい追及が必要である。この姿勢は靖国問題の正しい解決にもつながるのである。
日本の政治は天皇家と内閣行政府が相互補完する二重権力構造となっており、天皇家は敗戦後憲法で「象徴」とされているが実質的には権力者として存在している。そのため日本の政治は国民が政治的意思を正しく築けず表明できない環境が作られており、屈折し非合理的なものとなっている。主権者国民の間では現在「生前譲位」の希望にどう対応するかが話題となっているが、それに流し込まれず先ず「象徴天皇制」の実態の全貌を知らなければならない。主権者国民の知る権利に対してメディアはその要求に応える責務を果たすべきである。そして、主権者国民は国民のための真の象徴天皇制のあり方を提起し、主権を持つ国民にとって意味のある制度に作り変えるその良い機会とすべきである。もし、天皇家や安倍自公政権が改革を拒み不可能であるならばその存廃について「国民投票」で意思を問うべきである。それが主権を有する国民の責任である。
(2019年11月15日投稿)