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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口パート3

2023-05-09 18:42:57 | ワイマール共和国

 1933年2月27日、国会議事堂炎上事件が起こった。ヒトラーゲーリンクはこの事件を即座に、当時いかなる蜂起計画も早くから断念し、非合法活動に転換しようと準備を始めていた共産党の陰謀説に仕立て上げ、この際に、共産党に大打撃を与えようと決めた。

 プロイセン内務省の会議をゲーリンクとヒトラーが同席して開き、共産党の国会議員および各州議会議員、市議会議員、さらに党役員の全員逮捕と、共産党系の新聞の発行停止を決定した。同夜には早くもプロイセン警察の逮捕班が各地へ向かったが、警察側のブラックリストには何年か前から手回し良く調べ上げられていた4千人の名前が列記されていた。

 そして、国会議事堂炎上事件の翌日28日には「国民と国家の防衛のための大統領緊急令」を布告した。緊急令の規定には「国家の安全を脅かす共産主義者の暴力行為を防止する」場合にのみ適用するとなっていたが、事実上はワイマール共和国全土に戒厳令を布告したのも同然であった。緊急令第1条は、憲法の基本的人権にかかわる条項の効力を停止した。つまり、各個人の身体の自由を制限したのをはじめ、自由に意見を表明する権利、報道・結社・集会の自由及び信書・郵便・通信の自由、財産や住居の不可侵のいずれもを制限した。緊急令第2条は、各州が公共の安全と秩序の回復に必要な措置をとれない場合は、中央政府が各州の権限に干渉できると規定した。このため、各州の広範な自治権を排除してをナチ党による画一支配を可能とし、法治国家の解体を進める契機となった。緊急令はワイマール共和国の本質を構成していた「法による保証」、例えば内閣の行政行為に対する司法による不服審判制や、異議申し立ての権利、犯罪容疑を推定するための確定要件といった近代国家の法理を無視したものであった。その結果、国家権力による「恣意」に広い門を開きワイマール憲法を空洞化させたのであった。

 しかし、国民の大多数は、自分たちの自由が重大な危機にさらされている事に気づかなかった。国民の関心事は、不況による生活の困窮と、赤色革命が起こりはしないかという恐怖であった。教科書風に言えば、資本家層(資本家・地主)にとっては社会主義革命に対する恐怖を感じ、中産階級にとっては伝統的社会秩序崩壊の不安を感じ、労働者階級にとっては社会主義政党の指導力不足に失望を感じていた状態にあった。だから、ほとんどの国民は、ナチス・ヒトラー政権共産主義者たちへの対応を見ても、不快には思わなかった。それを見たゲーリンクは1万人の共産党員を逮捕し、全国の党支部をすべて閉鎖したうえ、共産党本部リープクネヒト館を占拠した。党首をはじめ多数の党幹部を逮捕連行したほか、左翼知識人まで拘禁した。

 また、ゲシュタポ(国家秘密警察)を新設した。警察はこれまでは任務遂行に当たり職務法第14条で「法の範囲内で行動する」、つまり、基本的人権の擁護という枠をはめていたが、ゲシュタポには適用しなくなった。3月3日には、警察による強制措置の対象は「一義的には共産主義者であるが、同時に共産主義者に協力したり、あるいはその犯罪目的を間接的にせよ支持したり、助長したりする者を含む」とした。このため、大量逮捕となり、逮捕者は仮設バラック、多くは野外の臨時施設(強制収容所)に集中収容した。

 この段階になっても国民の大多数は共和国がヒトラー政権により警察国家への道に踏み込んだ事に気づかなかった。共産主義者に対する迫害も気に留めなかったし、ナチ党がテロを加えても国民の人気を得たし、ナチ党と激しく対立している政党の系列新聞でさえ共産党員狩りに拍手喝采を送った。

 このような社会情勢から、1933年3月5日の総選挙はヒトラーの国民投票の様相となった。これまでナチ党に投票した事がなかった人々までがナチ党に1票を投じたため、投票率はこれまで80%前後であったが、空前の99.0%となった。ナチ党の得票数は1728万票(得票率43.9%)であったが、このうち約300万票はこれまで棄権していた有権者であった。全議席数647のうち288議席(45%)がナチ党員となり、今回も第1党(1932年7月31日第6回以降継続)であった。共産党は得票率12.3%(81議席)であったがヒトラーは無効とした。社会民主党は得票率18.3%(120議席)であった。

(2022年10月31日投稿)

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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口パート2

2023-05-09 18:35:03 | ワイマール共和国

 SA(ナチ党突撃隊)によるテロ行為は、中央党選挙集会で、同党支持者を襲撃し、流血の衝突から発砲騒ぎにまで発展した。また、中央党デモ行進に参加していた元閣僚を襲撃したり、中央党機関紙編集局も破壊した。さらに社会民主党デモ隊にも爆発物を投げ込んだ。社会民主党共産党の政治家は何人も街頭テロで殺害されたが、沈静化しなかった。

 SAによる街頭テロの後には、ゲーリンクは弾圧と強制捜査という行政テロを行った。1933年2月4日発布の「大統領緊急令」を都合よく拡大解釈して利用し尽くした。共産党本部であるカール・リープクネヒト館を、「反国家的文書」の捜索と称して、2度にわたり強制捜査をしたのをはじめ、社会民主党機関紙『前進』およびその他の社会民主党系新聞を2、3日間の発行停止処分にしたり、中央党選挙ポスターと宣伝出版物を押収したほか、中道系および左翼政党の選挙集会を強制的に解散させたりした。

 ナチ党の宣伝手口は、「共和国の破局が迫っているとか、国家転覆の危機にさらされているとか、ボルシェビズム化の脅威の中にあるとか」を、絶え間なくわめきちらした。そして、国家社会主義(ナチズム)を、恐怖と絶望の現状から希望の持てる将来への転換役として、救済役として印象づけようとした。

 ナチ党は、全国向けあるいは管区向けの遊説隊を個別に編成したり、特別選挙集会を開催したり、SAのパレードで人目を引いたりした。文書類も写真入りポスター、活字のみのポスター、パンフレット類、機関紙号外など多種類を使用してアピールした。また、何百万枚というビラを飛行機で全土にばら撒いたり、スピーカー付きの宣伝カーを国内隈なく走り回らせたりした。さらに、権力を利用してラジオ放送会社に選挙演説を強制的に中継放送させた。

 この宣伝は、大衆のリーダー待望論とヒトラーの名前を結び付けた。大衆にとってヒトラーは、大衆の要求を実現できない空洞化した社会制度に対する不毛の論議と絶望感から脱出する道を指し示しているように見えたのである。そして、ヒトラーはナチス独裁体制樹立への陰謀と策略を着々と推し進めるのである。

(2022年10月31日投稿)

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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口

2023-05-09 18:26:57 | ワイマール共和国

 1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領はアドルフ・ヒトラーを首相に任命した。ついで、2月1日、大統領は国会解散に署名し、閣議は総選挙の投票日を3月5日と決定した。

 ヒトラーは選挙戦に突入するにあたって、首相就任以来、気になっていたゼネストの恐怖を解決するため2月3日、閣議を開き、「ゼネストを萌芽状態のうちに摘み取るべきである」と閣僚たちに「大統領緊急令法案」を提案し承認を迫った。2月4日には、ヒンデンブルク大統領が「ドイツ国民の保護に関する大統領緊急令」に署名した。

 これにより、国家機関は、公共の安寧が直接的に脅威にさらされるような場合、国家の死活にかかわるような重要な事業所でのストライキおよび政治集会デモを禁止し、かつ社会の安全と秩序を損なうような内容の印刷物を押収、または一定期間の配布を禁止する権限をもつ事になった。この緊急令は、解釈自在のつかみどころのない規定であったため、最初は標的とされた陣営に対してであったが、やがては国内の言論の自由を破壊し尽くし、政府に対する反対者や批判者は根こそぎ排除される事となったのである。

 また、ヒトラー内閣支持を明確にした産業界からの献金により、ナチ党の選挙マシーンは、これまでナチ党員が経験した事のない活気を見せた。例えば、ゲーリンクのプロイセン州における手口は、プロパガンダテロ、つまり反対党を徹底的に攻撃するとともに国家機関を反対党弾圧の手段とするという巧みな混合戦術であった。それにより反対党を封圧する一方で、有権者を威嚇して従来からの支持政党へ1票を投じるのを断念させようというわけである。ゲーリンクが発する布告訓令で、プロイセン州内の県知事郡長たちは「国粋主義的」な政党のみを支持しなければならない事をほのめかされた。

 2月17日付のプロイセン州警察官に対するゲーリンクの布告では、「国家に敵対する組織を駆逐するためには、最も峻厳な手段で当たる事」とし、必要であれば銃器の使用も認めた。またゲーリンクは、「任務遂行のため銃器を使用した警察官は、その結果について顧慮する必要のない事を保証する。他方、結果を慮って銃器使用を拒む者は、服務規律違反で処罰される事を覚悟せねばならない」と指令した。さらに、2人の「特命委員」を任命し、警察官が指令通りに民主主義政党のささいな選挙違反も厳しく取り締まっているかどうかを監視させた。

 2月22日にはゲーリンクは、SAをはじめSS、鉄兜団の隊員たちを「補助警官」として採用する命令を出し、テロ行為を開始させた。彼らに対し、共産主義に対する闘争は警察的手段だけでは不十分であり、自らの手で自らを防衛しなければならない、と呼びかけ、民主主義政党の選挙運動に路上で襲撃させ、選挙集会に殴り込みをかけさせたのである。

(2022年10月30日投稿)

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明治政府の五節供廃止原因は太陽暦採用でなく臣民支配が目的

2023-05-07 11:31:57 | 日本人

 2023年5月5日の朝日新聞が「いちからわかる!節供って元々どんな日?」欄に、「太陰太陽暦(旧暦)から西洋式の太陽暦に切り替わるなどしたことから、明治政府は五節供を廃止した」と説明しているが、これは正しい説明とは言えないし、誤った歴史認識を植えつける事にもなる。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、天皇を唯一最高の権力者及び神的権威としていただき、中央集権の官僚制度と国民皆兵による常備兵制度とを整備し、全日本を統一的に支配する新しい国家のしくみである近代天皇制度を確立していった。

 その際、臣民(国民)教化を目的に、国家神道思想・天皇崇拝に基づく祝祭日(三大節及び四大節)を制定し、江戸時代を通じて培われた来た祝日「五節供」をいわれのない「迷信」であるとして廃止したのである。

 三大節とは、1月1日四方拝、2月11日紀元節(架空の神武天皇即位日)、11月3日天長節(天皇誕生日)。11月3日は後に明治節(明治天皇誕生日)とされ、天長節とは別のものとし「四大節」とした。

 この政府の政策に対して、臣民(国民)はどのような反応を示したのか?小川為治『開花問答』初編、二編には、「……改暦(明治5年12月3日=6年1月1日)以来は五節供・盆などという大切な物日を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝うことでござる。4月8日はお釈迦様の誕生日、盆の16日は地獄の釜のふたの明く日というは、犬打つ童も知りております。紀元節天長節由来は、この旧平のごとき牛鍋を食う老爺というとも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府よりしいて赤丸を売る看板のごとき幟(日の丸)や提灯を出さするのは、なお聞こえぬ理屈でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日をしいて祝わしむるは最も無理なることと心得ます」とあり、臣民(国民)がこの政策を、いかに不愉快で迷惑千万なものとして受け止めていたのかを知る事ができる。

 上記の四大節についてはアジア太平洋戦争の敗戦後、国民主権・基本的人権尊重を原則とする新憲法制定に伴い「廃止」に至った。

 朝日新聞記者は、上記のようなところまで深みと広がりのある内容を掲載し、読者国民が歴史認識を培ううえで役立つような内容にする事に留意する必要があるだろう。でなければ今後、読者は減少するであろう。

(2023年5月7日投稿)

 

 

 

 

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自治体行政が住民自治(主権)否定、首長による憲法尊重擁護義務に背く職権濫用、安倍政権の立憲主義否定と連動

2023-05-02 16:43:09 | 自治体

 2017年4月には、各地の地方自治体で、憲法で保障された権利に基づいてなされてきた各種のアピール活動が行政によって否定され排除される事態が発生している。

 その共通する理由内容は、それぞれの自治体行政の恣意的で浅薄な判断と見做されても仕方のないようなものであり、憲法が住民(国民)に保障する、「思想及び良心の自由」や「集会・結社・表現の自由」などの諸権利を自治体行政(公務員)は尊重擁護しなければならない(第99条)と課している規定に基づいて判断したものとはまったく考えられないものである。そしてそのような憲法に基づかない判断によって、主権者である住民が合法的にその意思を表明し訴えるアピール活動に対して抑圧妨害阻止の姿勢対応をとっており、それは自治体行政(知事、市長など公務員)が住民の権利を統制剥奪し、「住民自治(主権)」を形骸化空洞化させようとするものであり立憲主義を否定する意図をもつものであるといってよい。また重要な点は、この自治体行政の動きは、それぞれ独自に行われているものではなく、国会(国民の代表)や国民を無視して政策を強行している安倍自公政権と強い関係をもち、自治体行政の権限(権力)を強化し、住民(国民)の自治(主権)を制限剥奪し、住民(国民)に対して行政が指導命令的上位に立つように自治体の性格を改造する事を目的として行われている事である。

 福井市では、県庁前の交差点歩道で平日昼間、反原発の市民団体が県公安委員会の許可を得て5年ほど前から続けてきた反原発を訴えるアピール活動に対して、が文書で「活動の音量が大きくて不快」「横断幕やのぼりは美観上好ましくない」「通行の妨げ」といった「苦情」が寄せられているとして、活動を自粛するように要請している。

 この場合、県は「アピール活動に対する苦情」が寄せられた事を理由として「アピール活動」の自粛を要請しているが、県自身が「アピール活動」を単なる迷惑行為の対象とみなして対応処理していると見做す事ができる。そこに根本的な問題が存在する。アピール活動は一般的に「大きな音量、横断幕やのぼりは当たり前」である。また憲法で保障された権利に基づいたものである。この件では、県行政に対して、時間を限定し許可を得て実施されてきた合法的なアピール活動である。にもかかわらず県が法的根拠もなく、自粛を要請したという事は、「アピール活動」に対する理解に乏しいという事ではもちろんなく、県はその「苦情」を「アピール活動」よりも尊重しているのであり、そしてその「苦情」を口実にして意図的に「アピール活動」を抑圧妨害阻止しようとしていると考えるべきである。つまり、福井県(県知事)は「原発推進」の姿勢をとっている事が背景にあり、安倍自公政権と結託した行為であり、「反原発アピール活動」は不愉快で阻止禁止すべきものなのである。さらにいえば、住民自治(主権)を否定し自治体行政(知事)主権に転換させようとする重大な問題と考えるべきである。

 石川県金沢市は、金沢市の市民団体「石川県憲法を守る会」が5月3日の憲法記念日に同市庁舎前広場で開催しようとした「護憲集会」の申請を不許可にした。

 市は、広場が工事で一時使用できなくなる前の2014年まで、例年集会を認めていた。ところが今年2017年は、4月14日付で不許可を通知したため、「守る会」は会場変更を余儀なくされた。市によると不許可の理由は、「市庁舎管理規則の示威行為に当たる。集会内容に政府への批判が含まれる。市の中立性を確保するため。」という。

 この場合も、これまで許可されていたものが突然不許可とされたところに市行政(市長)に対する不信感を感じるが、不許可理由も憲法に照らして論理的に説明できない極めて恣意的なものであり、護憲集会に対する意図的な妨害阻止行為であるとしか考えられない。上記の「政府への批判が含まれる」「示威行為に当たる」「市の中立性の確保」などを不許可の理由にする姿勢は、憲法に定めた理念に基づき住民(国民)の権利を保障する事を目的として行政を実施しているとは思えないものである。

 住民(国民)が政府への批判も含めて自己の意見意志を表明する事に対して自治体行政(市長)はどのような法的根拠に基づいて否定できるのか。自治体行政(公務員)は憲法以外にその存在根拠はない。「中立性の確保」という一見もっとらしく思わせる理由についても、恣意的で極めて政治的な偏向した自治体行政の意志を押し通すためのごまかし以外の何物でもない。「中立」とは「誰をも利せず何も主張しない、どのような行動もとらない」という事を意味しており、判断や行動する際の基準にはなり得ず、関わりあいを避けるために使われているだけだからである。住民(国民)の自治と権利の保障と、そのために自治体行政が奉仕支援する事を定めた憲法を無視否定しているからこそ上記のような対応をとれるのである。これも自治体行政(市長)が住民(国民)自治を統制し、「住民(国民)主権」を抑圧否定し「自治体行政(市長)主権」へ変質させようとしている事を見抜くべきである。

 群馬県では県立近代美術館で、2017年4月23日から展示予定であった、県内の「朝鮮人犠牲者追悼碑」をモチーフにした作品「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」が、同館の指導で撤去された。

(2017年5月10日投稿)

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