広島平和記念資料館が、3体の「被爆者再現人形」(ジオラマ)を撤去するという。理由は「模型やジオラマではなく、被爆者の遺品など実物の資料中心の展示にするため」で「残虐な印象を懸念して撤去するわけではない」という。
この事は、資料館がどのような目的で設立されたのかを改めて省みる事の大切さを感じさせる。
単刀直入にいえば、資料館建設は原子爆弾(核兵器)がいかに残虐な被害をもたらした兵器であるかという事を、被爆時の街や市民の姿を想像してもらいやすいように当時の状況を可能な限り再現し、他の遺品などの資料と合わせて理解してもらう事によって、今後二度と核兵器は使用されてはならないという意識をもってもらうように国内外に訴え警告する事にあったと考える。資料館が1955年第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催された同じ年に開館した事に開館の目的が示されている。
このように考えると、今回「残虐な印象を懸念して撤去」するのであれば、それは資料館のこれまでの目的に照らせば今回の撤去は目的の変更であり論外であるが、「残虐な印象についての懸念はなく、被爆者の遺品など実物の資料中心の展示にする」という事であれば、「残虐な印象」はどのような形(展示資料)で理解してもらおうとしているのであろうか。「被爆者再現人形」については、2010年以降、原爆の恐怖が一目でわかるものとして、展示継続の署名運動も繰り広げられてきた経過もある。かつて、私も資料館を参観した事があるが、「被爆者の遺品」など「実物資料」だけでは「原子爆弾(核兵器)」の恐怖についての想像理解は不十分不可能であると思う。「百聞は一見に如かず」という言葉もある。であれば今回変更する展示内容は、これまでの「被爆者再現人形」によって表現されている被爆の実相と同程度の迫真性をもつものでなければならないし、また、これまで以上に被爆の実相に近い内容を表現する別の資料を展示する事でなければならないであろう。それが可能になったという事であろうか。
もし、そうでなければ、新しい展示内容形式は、原子爆弾(核兵器)の恐怖を薄める事が狙いであり目的としていると批判されても仕方がないであろう。
かつての神聖天皇主権大日本帝国政府(軍部)では、メディアの国民に対する戦争報道に関して、厳しい検閲を行っていたが、その重要な一つが映像写真に関してであった。それは国民に日本軍の残虐性を感じさせる写真は帝国政府の戦争遂行上不利益となるとする考え方に基づくもので、それに触れると判断された場合、すべての映像写真は掲載不許可としたのであるが、今回の「被爆者再現人形の撤去」がそれと同様の意図で行われているのであれば重大な問題であり看過できない。そうで無い事を願う。
しかし、安倍自公政権は、原発推進政策をとり、原発輸出に積極的であり、日本の核兵器の保有を正当化し、核兵器禁止条約に反対の立場を取っている事などを考えれば、政権の立ち位置である歴史修正主義に基づく「被爆者再現人形撤去」であり、「歴史の書き換え」行為と考えざるを得ない。
安倍自公政権はあらゆる面で、急速に圧力をかけ、政権にとって不都合な「歴史の書き換え」を目指している。それは国民の立場に立った歴史が隠滅されていく事に他ならない。
安倍自公政権(為政者)に対して厳守させるために国民が定めてある憲法の、国民主権・基本的人権尊重・平和主義の原則を、安倍自公政権は形骸化させているのである。
(2017年4月29日投稿)