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鳥獣戯画のセンスはどこから来たか?

2024-06-11 08:44:26 | 文学・歴史

 現在、東京国立博物館にて「鳥獣戯画」展が開催されている。高山寺蔵国宝である。鳥羽僧正覚猷の筆になるものかどうかは別にして、平安末期から鎌倉初期のものといわれ、当時の貴族社会仏教界を、鳥獣などの生物動物擬人化して風刺したものであると解釈されている。

 ところで、このような画風はこれ以外他には見られない。この画風のセンスはいったいどこから来たのであろうか。「絵画」ではないのでこの「戯画」に直接的に影響を与えたとはいえないのであるが、源流はこれではないかと思われるものがあるので紹介したい。朝鮮半島には、918年から1392年まで高麗国という国が存在したが、その末期から次の李氏朝鮮国時代初期にかけて「時調詩」というものが盛んになったようであるが、そのセンス源流としたものではないかと思うのである。

 「時調詩」とは、動物植物などを擬人化する手法で、政治のひずみ社会のひずみの形にしたもので、小説民謡もたくさん作られていたようである。

 李氏朝鮮国時代になると、がつけられて「仮面劇」や「パンソリ」(民俗芸能、唱劇、劇歌)のなかに取り入れられていったようである。

さて、今回の「鳥獣戯画」展においてはどのようは説明や評価がなされているのだろうか?

(2021年5月28日投稿)

 

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「さかい利晶の杜」の企画展「堺から世界に響け君『死にたまふことなかれ』」は与謝野晶子像の捏造

2024-05-16 14:14:23 | 文学・歴史

 「さかい利晶の杜」は、2024年5月18日から開催する企画展「堺から世界に響け『君死にたまふことなかれ』」で、与謝野晶子日露戦争時の反戦詩『君死にたまふことなかれ』の多言語翻訳を紹介し、「晶子の平和の思想」を世界に届ける事を試みるという。しかし、このような「与謝野晶子」の取り上げ方は、企画者にとって「晶子」の都合の良い評価だけで「晶子像」を作り上げ利用したものであり、晶子の生涯にわたる「生き様」を歪曲捏造した、「歴史修正主義」的な姿勢に立つものであり、評価できるものではない。

 つまり、与謝野晶子はその後「主戦論」に「変節」するからである。1910年の「大逆事件」の後、晶子自身はこの反戦詩や『みだれ髪』について「口を閉ざす」ようになっている。大正時代(1911年~)には「男女平等論」を展開するが、他方、昭和時代(1925年~)に入ると、旅順を旅した際、「ここで陣没した同胞の思いを生かすためにも、満蒙に自由な労働の場を開くべきである」と主張している。さらに「大東亜戦争」(アジア太平洋戦争)においては、息子の「出征」を励まして、「み軍にゆくたけく戦へ」と歌っており、明らかに「主戦論」へと「変節」しているからである。

(2024年5月16日投稿)

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岐阜市長良川の鵜飼

2024-05-12 18:24:48 | 文学・歴史

 2020年9月5日朝日新聞「Be」が長良川の「鵜飼」の記事を載せた。「鵜匠」は「世襲制」で、現在長良川では岐阜市に6人、関市に3人、合計9人いるという。1890年に宮内省所属となり、現在では「宮内省式部職鵜匠」という肩書だそうだ。「鵜飼」は宇治川など全国十数か所で行われているが、皇室に納めるアユをとる「鵜飼」は長良川だけで行われ、『御料鵜飼』とよび、その「鵜飼漁の技術」は2015年に国の「重要無形民俗文化財」に指定されている。

 ところで記事には書いていないが、この「鵜飼漁」は日本のオリジナルではなく東南アジアから伝わったというのが定説である。そして、その「」には「海鵜」と「川鵜」がいるが、日本では「海鵜」を使用している。また、「人工ふ化」ができない(2014年頃に実現)ため、岩手県三陸海岸などで自然繁殖している「海鵜」の幼鳥を捕獲したり、茨城県日立市北部の伊師浜海岸では渡り鳥としてやって来た若鳥を捕獲して各地に送り、鵜匠が訓練育成して使用してきたようだ。

 ちなみに、「鷹狩」も東北アジアの狩猟法で、沿海州で起こったものといわれている。そして、その「」も「人工ふ化」ができない鳥なので、幼鳥を捕獲して訓練しなければならなかった。そのため、鷹の幼鳥を捕獲する保護地区を作ったりしてきた。地名や山の名称で「鷹」という字がつくところはその名残といわれている。

(2020年9月6日投稿)

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日立造船のルーツ「大阪鉄工所」の起こり

2023-10-13 13:16:29 | 文学・歴史

 日立造船の起こりは、1881(明治14)年4月1日開業の様式造船所「大阪鉄工所」であった。その所長はイギリス人のエドワード・ハズレット・ハンター氏(当時41歳)であり、彼のワイフは日本人で平野愛子(当時31歳)であった。場所は大阪府西成郡春日出、六軒屋新田の松ヶ鼻。現在の此花区北安治川通3丁目。

 「鉄工所」には、6馬力の蒸気機関を原動力に、スチーム・ハンマー、旋盤などいずれも外国製の機械を設置。宣伝文句は、「造船、陸用諸機械はもちろん、架橋あるいは耕作用ポンプ、その他大小諸鋳物の製作並びに修理などすべて各位の乞いに応ず」とした。ここに「日立造船」の歴史が始まったのである。

 ハンター氏が大阪へ来たのは、1867(慶応3)年12月7日の兵庫開港、大阪開市の時。それまですでに、1865(慶応元)年に横浜へ来て、同郷の輸入商E・C・キルビー氏を手伝っており、関西へ来たのも神戸と大阪の川口居留地に店を構えた「キルビー商会」で働くためであった。

 ワイフ・愛子は、大阪市西区江之子島上之町にあった府立工業奨励館近くの薬種商・平野常助商店の長女であり、その出会いは、1868(明治元)年9月、愛子が18歳の時、腸を患っての高熱で、明日をも知れない重体で、医者も匙を投げていたところへ、27歳のハンター氏がたまたま「キルビー商会」の使いで輸入薬品を届けに来て愛子の命を助けたという。

 1873(明治6)年には、「キルビー商会」の同僚・秋月清十郎の重病も救い、これをきっかけに、秋月はハンター氏の片腕となり、西南戦争(1877)の海運業ブームの中で、「大阪鉄工所」を創設開業した。しかし、1881年に「松方デフレ政策」(緊縮政策)により経営難に陥った。その時、敷地提供者・門田三郎兵衛が「鉄工所」を譲り受けようとしたが、恐慌状態の中で経営に失敗。契約不履行から「鉄工所」は再びハンター氏の元へ戻った。ハンター氏が再開した「鉄工所」は、彼の「ジョンブル精神」(典型的英国人気質=不屈の精神)とワイフ愛子の協力により「日立造船」の土台を築いた。

 ハンター氏の子の代で、「ハンター」を日本語読みにした「範多」家を起こした。1907(明治40)年に神戸市生田区北野町に建てた「ハンター氏邸」は、1966(昭和41)年3月、重要文化財に指定され、現在神戸市灘区青山の「王子動物園」の隣に移築されている。

ハンター氏は、1917(大正6)年、76歳で死去。彼の死後、ワイフ愛子は社会福祉事業に生涯尽力したが、1939(昭和14)年、89歳で死去した。

(2023年10月13日投稿)

 

 

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ゲルニカ・ピカソ・バスク人・スペイン

2022-04-24 15:26:54 | 文学・歴史

 1929年10月24日、米国ニューヨークの株式市場(ウォール街)の株価が暴落し世界恐慌が始まった。 

 スペイン王国では1931年4月に共和派が、スペイン革命を起こしブルボン朝を倒してスペイン第2共和国を成立させた。新共和国政府はヴァイマル憲法にならった新憲法を制定したが、土地解放を実施せず、地主・教会・軍部・資本家などは必死で巻き返しを図り、政情は安定しなかった。しかし、1936年2月の総選挙で勝利したアサーニャ人民戦線内閣土地改革や教会の特権剥奪などに着手した。それに対し危機感をもった僧侶・軍人・大資本家・地主に支持されたフランコ将軍が、1936年7月にスペイン領モロッコで反乱(スペイン内乱の始まり。~1939年3月)を起こし軍事政権を成立させた。この時、これを支援したヒトラーのナチス・ドイツ軍(コンドル軍団)が残虐な無差別爆撃を行ったのがゲルニカという町であった。ドイツとイタリアはフランコ側に武器・弾薬・軍隊を送った。またドイツはこの内乱を兵器と戦術のテスト場として多くの残虐行為を行った。スペイン生まれのピカソはその残虐さを絵画『ゲルニカ』に描き抗議した事は有名である。

ゲルニカ・バスク人ゲルニカを含む、フランスとスペインの国境沿いにはバスク人が住み、バスク地方と呼ぶ。現在バスク人は国を持たず、ピレネー山脈西端麓、ビスケー湾に面したスペイン側(ゲルニカを含む)の4県とフランス側の3地方に住んでいる。バスク人はクロマニヨン人の進化した民族といわれ、現在の欧州に住む各民族の中でも最も古くからイベリア半島に住んでいた。独自の習慣や、ほかの欧州言語とはまったく類似性のないバスク語を話す。かつてはローマに侵略されても自治を保ち、5世紀の西ゴート族、8世紀のイスラム侵入にも全面降伏を許さなかった。ムーア人の侵入は、「バスク人は全員貴族だ」という理由で奴隷化を免れ、支配者が現れると、逆に自分たちの「法律」を見せて、「これを守ってくれるなら領主や王として認める」と言ったという誇り高いエピソードを持つ。12世紀頃から、カスティリア王国の支配下に入った後も、何とか自治権を維持しようと試み、それが適っていた時代もあった。しかし、その後のフランス革命、スペイン内乱などでは、自立はうやむやになってしまい今日に至っている。伝統的に続く独立運動は20世紀に入っても衰えていないが、その象徴がゲルニカの町にある「樫の木」である。かつてこの木下でバスク人たちは、領主や国王に自分たち独自の「」を護る誓いを建てさせたのである。元々ゲルニカは、人間の「自由と尊厳」の象徴の町としての歴史がある。

 1937年4月28日付の「タイムズ」紙の記事では、「バスク人の最古の都市であり、その文化的中枢であるゲルニカは、昨日午後、反乱軍の空爆によって破壊された。戦線からはるか離れたこの非武装都市の爆撃はきっかり3時間15分にわたって行われ、その間3機のドイツ型編隊機は1000㍀を下らぬ爆弾を町に投下し続けた。戦闘機は町の中央から野外に避難している民間人に対し、機関銃を打ち込んだ」と書いている。

 首都マドリードは抵抗を続けた。「優勢なフランコ軍の包囲は、マドリードの陥落を最早時間の問題であると思わせていた。「奇跡」が起こらなければマドリードは間もなく陥落するであろう、といわれた。しかし、その「奇跡」が起きた。マドリードは以後2年半持ちこたえる事になったのである。20歳から45歳までの男子は、首都防衛のために総動員される事になった。市民はを掘り、石工を指導者としてバリケードを作った。女性も使い慣れない銃をとって戦列に加わった。市内では次第に燃料がなくなり、湯茶さえも沸かせなくなった。ちょうどこの時、反ファシズムの情熱に燃えた45ヵ国の知識人や労働者が、共和国の防衛に感激と同情を寄せてスペインに集まった。世界的に頭をもたげた巨獣のようなファシズムと戦うスペインは、各国の労働者や青年を惹きつけた。彼らにとってスペイン人民戦線は、正義・革命・民主主義そして英雄的献身のシンボルであった。彼らは国際旅団を作って、スペイン市民とともに戦った。」(斉藤孝著『スペイン戦争』中公新書)

国際旅団については、別稿(カテゴリー:日本人)「スペイン戦争で人民戦線政府の国際義勇兵として戦った日本人がいた」を参照してください。

 しかし、1939年3月、マドリードは孤立無援状態でフランコ軍に陥落した。

 スペイン人民戦線側は、外国に武器援助を求めた。それに応えたのはメキシコ政府とソ連政府だけで、人民戦線政府への援助の声明を出した。それに対し、英・仏両政府はともに不干渉政策をとった。そのため、独・伊両政府によるフランコ反乱軍への武器援助は、欧州資本主義諸国政府の「容認と寛容」の下で公然と行われた。また、米国政府は、フランコ側にガソリン・自動車などの物資を援助した。

 英国・仏国・米国それぞれの政府は、マドリード陥落後すぐにフランコ政権を承認した。そして、ナチス・ドイツは欧州戦争の準備に精力を集中した。フランコ政権によるスペイン人民戦線の敗北は、スペイン以外の国々において、帝国主義戦争へと突き進む自国政府の政策を止める事ができなくなり、第2次世界大戦の序幕となったのである。

(2022年4月24日投稿)

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