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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は死直前、大日本帝国の将来について悲観

2024-10-29 19:03:42 | メディア

 ラフカディオ・ハーンは大日本帝国の国籍を取得するため日本人名を「小泉八雲」とした。彼は1904年4月に出版した『怪談』で日本国民に知られた人物であるが、彼の死の直前の大日本帝国の将来についての、今日の国民にほとんど知られていない「言葉」を紹介したい。

○1850年6月、ギリシャで生まれた。父はアイルランド人、母はギリシャ人。

○少年時代には不幸が相次いだ。両親の離婚、事故による左眼失明(16歳)、父の旅先での死、経済上の理由での退学。

○ロンドンに出て造船所で働き、華々しい産業革命の陰で陽の当たらない生活を送る人々の中で成長。

○1869年、ロンドン又はフランスのル・アーブルから移民船「セラ号」に乗って、無一文でアメリカへ渡り、移民列車で、多くのアイルランド人が住んでいたオハイオ州のシンシナティへ行く。19歳。そこで、給仕、廃品回収業、行商、電報配達員、ビルのガラス磨きなどの職を転々とした。

○産業革命後の資本主義経済に抑圧された立場から、資本主義の暗黒面への批判や文明化への疑問を持つようになる。

○1877年、ニューオリンズへ移り(27歳~37歳までの10年間)、文才を認められ新聞記者(1878~1881年)となる。『デイリー・シティ・アイテム』新聞社で准編集者となった。挿絵を入れた、アメリカで最初の新聞風刺漫画も書いた。仏文学の翻訳もし、ゾラ(仏の自然主義作家、94~99年ドレフュス事件)やモーパッサンの作品を通じ、益々文明社会への批判を強めた。『タイムズ・デモクラット』紙の文芸部長となり、評論と翻訳を中心とする文学的な記者として活躍。

○同時に素朴な民族や国へのあこがれを抱く。ニューオリンズで開かれた博覧会(1884~85年)で日本館の出品物に触れ、日本へ強い関心を寄せた。ニューオリンズと松江市とは友好都市提携している。

○1890年(40歳)、来日(米新聞記者として日本を紹介するため)。

○島根県松江の中学校の英語教師となる。

○1891年、松江の「小泉セツ」と結婚。セツは没落武家の娘でハーンのところへ奉公に来た。父母の反対で入籍せず。

○1892年、熊本へ、その後神戸、東京へ。東京帝大や早稲田専門学校(1902)にも出講。神戸ではジャーナリストとなり、英字新聞「神戸クロニクル」を発行し、大日本帝国政府に警鐘。1894年12月(日清戦争開始後)の論説では日本軍の戦闘について、「女性や子どもに対する不必要な残虐行為である。大日本帝国政府の報復行為は言い訳できない」と論じた。熊本では第五高等中学校で英文学を教授。熊本市内の「富岡写真館」で夫婦の写真を撮影。東京帝大時代に『怪談』出版(1904年4月)。

○1896年、子どもも生まれ、大日本帝国の国籍取得。長男一雄誕生。ラフカディオの「カディオ」からとった。小泉家に婿入り。大日本帝国の国籍取得のため日本人名を「小泉八雲」とした。「八雲」は古事記からとった。

○1904年、日露戦争(04年2月開戦)中に54歳で急死。

 死の直前の論文『産業の危機』で大日本帝国の将来を悲観した。

 「この調子では大日本帝国はもはや、果てしない戦争に突入していって、最後には破滅するのではないか……」と。

○彼は、出雲大社よりも、松江藩主の守り神であった「城山稲荷神社」(1638年、松平直政が火難除けとして城内に建設)の「石きつね」を好んだ。

(2024年6月22日投稿)

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戦時下、政府を翼賛するメディア(新聞)は国民に一億特攻を煽った

2024-10-25 09:52:09 | メディア

 1944年後半以降、「体当たり精神」や「特攻隊精神」という言葉が盛んに叫ばれるようになった。メディアもこのような世相を反映して、「精神主義」を前面に打ち出した記事を載せた。

 1944(昭和19)年9月22日の朝日新聞『神風賦』には、B29に飛行機で体当たりした操縦士を取り上げて、「もとより生還を期さない、生命の執着を地上に忘れて来たものに違いない。いな、俺は死ぬんだといった感じのものではなく、その瞬間には、生死を超越し敵を斃さねばならぬという必墜の信念でぶつかってゆく気持ちだといわれる」と書き、また、「体当たり精神とは、『弾丸が雨と降る中に、倒れても倒れてもなお突撃して来る超人的精神力』として、日本の歩兵の突撃精神は外国戦術家の驚異となっている。この歩兵の突撃精神をさらに一歩進めたものが体当たり精神である。肉弾の強さは洋の東西を問わぬ。特に、日本はこのこの肉弾をもって、今日まで戦って来た。物量よりも、武器の性能よりも、生命をもってぶつかって行く肉弾精神こそ敵の最も恐るる『不可思議な力』である」と書いている。

 1945(昭和20)年になると「一億特攻」という言葉が頻繁に使われるようになり、兵士だけでなく「国民全員」に特攻精神を要求する記事を載せた。同年6月14日の同紙には、「敵来らば『一億特攻』で追い落とそう」と題し、「『一億特攻隊』の言葉が叫ばれて既に久しい。だがこの言葉の叫び続けられねばならぬところ、国民の中にはまだ特攻精神に徹しきっていないものがあるのではないか。しかも今ほど一億国民すべてに、あの烈々醜虜(外国人の事)を焼き尽くさずんばやまぬ特攻精神が求められることはないのだ。沖縄の決戦なお続くといえども大局我に利あらず。我々は遂に敵の本土上陸を覚悟しなければならなくなった。男も女も、老人も子供も、一たび敵が本土に上陸せば武器となし得るものすべてを武器とし、敵兵を突き刺さねばならないのである。一億特攻、今にしてこれを我がものとして敵に立ち向かうのでなければ勝利は永遠に失われるであろう。書いてみれば平凡な常識である。また多くの人々によって語られた言でもある。ひとあるいは『報道班員いまさら何をほざく』と嘲罵するであろう。だが基地にあって幾多の特攻隊員の沖縄出撃を見送り、力の限り帽子を振った一報道班員である私にとっては、この嘲罵をも甘んじて受け、さらに声を大にして『一億特攻!』と絶叫し本土上陸の敵を迎え撃つことに最後の勝利を見つめたいのである」と書いている。

 また1945(昭和20)年4月16日の同紙には、女性や老人など国内に残る一般人を対象に、手榴弾の握り方や投げ方を細かく説明している。それは「投げ方は立ち投げ、膝投げ、伏せ投げの3パターンがあり、兵士は立ち投げで30~35㍍、伏せ投げで20㍍以上投げるが、この距離は容易に投げられる距離ではないから、老若男女は投げる訓練をすべきである。手榴弾がないからといって訓練ができないでは済まされない。手榴弾と同じ形、重さの石でも何でもよいから訓練を積むべきである」と書いている。

 同年6月11日の同紙には、大本営陸軍部刊行の『国民抗戦必携』を引用して、国民に敵を殺傷する事を指導している。例えば、「ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口、鎌等を用いる時は後ろから奇襲すると最も効果がある。正面から立ち向かった場合は半身に構えて、敵の突き出す剣を払い瞬間胸元に飛び込んで刺殺する。刀や槍を用いる場合は背の高い敵兵の腹部をぐさりと突き刺した方が効果がある。一人一殺でもよい。とにかくあらゆる手を用いて何としてでも敵を殺さねばならない」と書いている。

 上記は戦時下、神聖天皇主権大日本帝国政府それを翼賛したメディアの姿勢の一端を紹介したものであるが、侵略戦争に勝利するために当時国民にどのように処す事を求めたのかを詳しく知る事ができるものである。現在、大日本帝国への回帰をめざし憲法改悪をめざす安倍政権と、それをメディアが翼賛する状況下で、国民はその過去から貴重な教訓を学び取り、再び騙され同じ過ちを繰り返してはならない。

(2016年12月27日投稿)

 

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『週刊朝日』(1948年5月16日号)の鼎談での昭和天皇についての三淵忠彦発言

2024-10-01 07:42:59 | メディア

 『週刊朝日』(1948年5月16日号)が、佐々木惣一長谷川如是閑三淵忠彦鼎談を掲載した。佐々木惣一(1878~1965)は、法学者で、憲法及び行政法の権威で、天皇機関説民本主義を主張した。滝川事件に連座し退官。アジア・太平洋戦争敗戦後、帝国憲法の改正に参画した。長谷川如是閑はジャーナリストで思想家。自由主義批評家としてデモクラシー思想を鼓吹した。三淵忠彦は、敗戦後の新憲法下での初代最高裁長官を務めた

 三淵忠彦鼎談において、以下のような昭和天皇についての持論を主張したので紹介しよう。

「かりに陛下が道義的にお考えになって、退位されたいと考えた場合、国会だけで決めるか、あるいは国民投票に問うか、これは問題だな。僕らはね終戦当時陛下は何故に自らを責める詔勅をお出しにならなかったか、という事を非常に遺憾に思う。先例がある。この書(唐の玄宗の例を引いた)によってみんなが涙を流して感奮して、その力によって回復の緒についたという先例がある。やはり痛烈に自らを責められる詔勅をお出しになって、国民をして感奮せしめるだけの手を、なぜお打ちにならなかったかと、不思議に思うくらいだな。公人としては自分の思慮をもって進退去就を決するわけにはいかないんだ。どうしたって。だけど自らを責めることは妨げられない。だから、自分の不徳のいたすところ、不明のいたすところ、国民にかくの如き苦労をかけたということを、痛烈にお責めになれば、よほど違ったろうと思うな」

(2024年9月30日投稿)

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情報の統制と一元化を目論む籾井氏、敗戦までの日本放送協会への回帰めざす

2024-09-10 21:15:50 | メディア

 熊本地震で、関連する原発に関する報道について、4月20日開催の「災害対策本部会議」での籾井勝人NHK会長の指示内容が問題となっている。それは、

○「住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」

○「当局の発表の公式見解を伝えるべきだ。いろいろある専門家の見解を伝えても、いたずらに不安をかき立てる」

また、「被災地で自衛隊が活動するようになって物資が届くようになった事なども報じるように」と発言。その際の「公式発表」とは「気象庁原子力規制委員会九州電力が出しているもの」とした。

また、26日の衆院総務委員会の民進党奥野総一郎氏の質問に答えて、

○「事実に基づいて、モニタリングポストの数値などを、我々がいろんなコメントを加味せずに伝えていく」

○「指示」については、「原子力規制委員会が安全である、あるいは続けていいという事であれば、それをそのまま伝えていくという事。決して、大本営発表みたいな事ではない」と説明した。

 このような籾井氏の姿勢に対して、専門家の間から批判がなされている。例えば、「住民に安心感を与えるためとしているが、それは視聴者を馬鹿にしており、視聴者は政府や企業などが公式に与える情報だけでなく、様々な情報を得て正確な判断をする材料としたいと考えている」とか、「政府などの公式見解が出るまではNHKは報道しないという事で、編集権の放棄で、報道機関としての自殺行為ではないか」とか、「ジャーナリズムの役割を理解していない、公式発表を伝える事がメディアの役割だとすれば、広報だと思っているに等しい」などである。

 籾井氏に対するこれらの批判はまったくその通りであると思う。しかし、籾井氏にとって、今回の指示発言や姿勢への批判は痛くも痒くもないのである。私たちはもう一歩先にある籾井氏の目論見を見通しておかなければならない。それは、籾井氏の最終目的が、敗戦までの政府の広報機関であった「日本放送協会」への回帰であり、国民へ伝え知らせる「情報の統制と一元化」を図ろうとしているという事である。彼は今回も意図的に指示を出しているのであり、単に能力や資格がないというレベルの問題ではなく、「確信犯」なのだという事を我々はくれぐれも理解しておかねばならないのである。そしてさらに、そのような人物をどのようにして失脚させるかを早急に考えなければならない事を明確に示されたという事なのである。

 NHKによる「情報の統制と一元化」を実現するためには、民放メディアへの統制も必要であるが、それを進めているのが「高市早苗総務大臣」なのである。民放メディアに対し、「放送法第4条」の「政治的中立・公平」を安倍政権に都合よく解釈し圧力をかける事によって日本人の精神性に働きかけ「自主規制」させる手法を取って進めているが、籾井氏と連携してそれぞれの役割を遂行し、NHKによる「情報の統制と一元化」を達成しようとしているのである。国民にとって非常に深刻な事態となっているのである。

 神聖天皇主権大日本帝国政府下における臣民(国民)の自由と権利を奪う手法には4つあった。それは、①弾圧立法、②教育、③暴力、④言論の自由の抑圧と情報の一元化、である。安倍自公政権はそれらを現在着々進めそして加速させている。

(2016年5月2日投稿)

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5・15事件裁判における弁護士の言葉と軍部のファシズム化推進

2024-06-08 15:09:36 | メディア

 5・15事件(1932年)に関する記事が解禁されたのは1933年5月17日であった。事件の裁判が開かれ、その陳述の内容や様子を新聞が大々的に報じた。報じられた記事からは当時の臣民(天皇の家来の意。現国民)が置かれた生活状況社会状況認識状況がうかがわれる。今日、自公政権の専横の下に生活する国民にとって、日本を人権が尊重される民主的で生活しやすい国にするために参考になる部分があるので紹介したい。

1933年8月5日『大阪時事新報』では、

政党財閥特権階級軍閥等が悪いということも国民周知の事実だと考えて居った、……選挙はすべて買収選挙である、五当三落という言葉がある、五万円あれば当選三万円では落選の意味である。又三番ともいう。一番は鞄二番は地盤三番は看板の意である。……六十四議会(1932.12.26~33.3.25)における労働組合法案の運命を引例し資本家の圧迫により法案が骨抜きにされたこと……など暴露し、更に政友会の三井民政党の三菱等の腐敗政党地方自治破壊内閣更迭毎に繰返される地方長官更迭等幾多の事例を挙げて政党の罪悪を数え疑獄事件の続発をなげき/西園寺は維新の元勲であるが政民両党の二大政党の間にあってキャスチングボートを握り政党財閥の原因をなしているもの」

 1933年8月23日『神戸又新日報』では、

「山田弁護士 我国は由来国危殆に瀕する際は或は中大兄皇子現れ、或は楠木氏の忠節あり之れは国体の然らしめる所且つ又世界に冠絶する所以にして被告等の行為は又この一であると断じ……国家官吏を政党の奴僕となしている現状を縦横無尽にこきおろし政党政治否認論に及ぶ、更に進んではかかる政党の腐敗、堕落の根本多数党による政権の把握に原因し多数党となるための金員のかき集め、ひいて財閥との結託こそ政党政治腐敗の根本原因であると喝破……。山田弁護士は赤穂浪士の例を引き本件の行為と義挙について縷々陳述、更に犬養首相の壮烈なる最後ならびに首相を倒した被告などが敵を激賞せる心情を言々火の如き熱弁を以て述べ山岸中尉の法廷において口吟んだ句(来ん春を待たで散りにし人柱 今日は何処で国をみまもる)を涙にむせびながら読み上げれば満廷にはすすり泣きの声さえ洩れ、西村裁判長双頬にあふれる涙も僅にこらえる、更に進んで坂本龍馬の最後を説き、烈々火を吐き流汗淋漓ぬぐおうともせず被告のため論じ……被告の行為は一命を投出してなしたるものでかくの如きはまねてなし得る行為ではない、形式論を斥け進んで天誅論に入り刑は天刑をもって貴しとなし天刑とは輿論であるとて澎湃たる全国的減刑運動に言及し、正午再び休憩に入る」

海軍側の判決は1933年11月9日に出された。それについて11月10日『時事新報』では、

「被告人等は我国現下の情勢を目し国民精神頽廃し建国の本義日に疎んぜられ所謂支配階級たる政党財閥特権階級腐敗堕落して国家観念に乏しく相結託して私利私欲に走り……農村の疲弊思想の悪化を招く等事態憂慮に堪えざるものある……帝国は千九百三十六年の交に於て未曾有の難局に逢着すべく……合法的手段を以てしては到底焦眉の急に応ずるの遑なきものと認め遂に一切を超越して直接行動に訴うる已むなきを決意し自ら国家革新の為の捨石となりて先ず此等支配階級に一撃を加え其の反省を促すと共に一般国民を覚醒奮起せしめ以て国家革新の機運を醸成せんことを期するに至れり」

(判決)

陸軍側被告への判決(1933年9月19日)

 最も重罪で禁固4年

海軍側被告への判決(1933年11月9日)

 死刑求刑の三上卓ら3名を懲役15年、13年とするなど、異例の軽い判決

民間側被告への判決(1934年2月3日)

 ほぼ求刑通りで愛郷塾主宰橘孝三郎が無期懲役など

軍人側には執行猶予あるのに民間人側には一人もおらず民間側に重かった。また、軍人側民間側とも  に大量の減刑嘆願署名が提出された。

※5・15事件で殺害された犬養毅内閣の後継内閣選びは、陸軍が政党内閣の継続を嫌ったため難航。元老西園寺公望は、退役海軍大将・元朝鮮総督の斎藤実を推薦し、最初の挙国一致内閣が成立。1924年成立の護憲三派内閣以来8年続いた政党内閣は倒され、軍部はファシズム化推進した。2・26事件を経て盧溝橋事件をきっかけに神聖天皇主権大日本帝国政府中国に対し全面戦争へ突入し、その泥沼化から脱するために、さらには米国を主敵とした太平洋戦争をも招いた。政党内閣は敗戦後の1946年まで復活する事はなかった。

(2024年6月8日投稿)

 

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