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母を送る

2021-08-09 12:00:00 | 母のこと

8月 3日 (火) 

朝7:20頃、電話が鳴りました。
とっさに母の顔がよぎりました。
嫌な予感は的中。
施設から、母の呼吸が乱れているから、すぐに来て下さいと。

7:30、私が駆けつけると、施設の職員さんたちが、母のベッドを囲んでうつむいていました。

「1〜2分前でした。」と。
「junさんが直ぐ来るから頑張って!」と言うと、

大きく目を見開いて、
「あ〜」とひと声発し、
大きな息を一つして…

「穏やかな最期でした。」と。

母の顔も手も温かいので
息をしていないのが信じられませんでした。
何度も「お母さん!」と呼び続け
何度も母の息や脈を確かめました。

…逝ってしまいました。

私は、まだ温かい母の手を握り、
「お母さん 頑張ったね。」
「お母さん ありがとう。」
を繰り返しました。

施設の皆さんが、一人一人母にお別れを言いに来てくれました。
顔をさすったり、手を握ったりして、
母のために涙して下さる姿を見て、
母と深く関わって下さった事が伝わってきました。
セレモニーホールへ向かう時も、
全員が外へ出て、見送って下さいました。
最期がこの施設で良かったと再認識しました。

兄と夫が葬儀の段取りをしてくれている間、
泣いて泣いて、泣き疲れた1日でした。
泣き過ぎて、夕方、頭が痛くなって泣けなくなりました。

退院した翌日に亡くなるという驚くべき展開でした。

コロナ禍ですから入院してからは、
全く面会できませんでした。
7月26日のタブレット面会で、母はゼリーを食べて(飲み込んで)いました。
30日、市立病院の担当医からの電話では
「いつ退院しても良い。」と。
それなのに、退院の翌日に逝くなんて。


でも、今思うと、
母はなんとしても施設へ戻り、
私と施設の皆さんにお別れしようと
頑張ったのだと思います。

胃瘻か経口補給できなければ、ターミナルケアのできる病院への転院となる予定でした。
母は、食道裂孔ヘルニアなので胃瘻は無理でした。


灯滅せんとして光を増す


退院した日、私は、久しぶりに母の顔や手をたくさんさすり、母と触れ合う事が出来ました。
母は、それを確認して旅立ったのだと思います。

母は、老木が朽ちるが如く、幹にシワを寄せ、葉を一枚一枚落として自然な最期を迎える事ができました。
「理想的な最期ですよ。」と、
施設長さんのお言葉でした。
施設の主治医の先生が書いた死亡診断書には、
「自然死」と、ありました。


又、母はこの8月1日に91歳の誕生日を迎える事もできました。

相撲、野球、ゴルフなどスポーツ観戦が好きだった母は、「東京オリンピックまでは頑張りたい」と、口癖の様に話していました。
長寿を全うすることができました。



6日 (金) 
19:00 通夜

7日 (土)  のち 
11:00 葬儀

母の遺言通り、長女の成人式に撮った写真を遺影にしました。
母が好きだったピンクや赤色で祭壇を飾りました🌹


汕頭(スワトウ)刺繍の着物を棺に入れました。
これも着物好きな母の遺言でした。
また、トレードマークだった帽子とサングラスも入れました。

ごくごく身内だけの家族葬で、母を送りました。





四十九日を迎えるまで、私の家に祭壇を飾り、母を供養しています。
朝晩の御膳を上げながら、母と話をしています。
部屋を掃除していると、
後ろから「ねぇ、jun」って声をかけられた様な気がして、
「なぁに?お母さん」と、答えると、
そこには笑顔の母がいます。


時の流れは早いもので、
今日は、もう初七日です。
母は、不動明王様に懺悔して、お許しを頂けたでしょうか。

私はなんだかポカンとしています。


 🙏        


コメント (20)
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