NPOな人

NPOの現状や日々の雑感などを徒然なるままにお伝えします。

江戸歌舞伎

2010年09月25日 | エコでボランタリーな江戸の町
江戸の歌舞伎興行は、猿若勘三郎(三代目から中村勘三郎)が寛永元年(1624)に幕府の許可を得て中橋(後に堺町へ移転)に芝居小屋を立ち上げたのが始まりで、その後、市村座(葺屋町)、森田座(木挽町)、山村座(木挽町)と続き、この四座が歌舞伎を上演していました。

しかし、正徳4年(1714)に山村座役者の生島新五郎と大奥御年寄の絵島が密通したという「絵島生島事件」により山村座は廃絶となり、以後は江戸三座となりました。

幕府は歌舞伎は風俗を乱すと考えて快く思っていなかったようで、中村座が火事を出したのを機に、天保十三年(1842)になるとこの三座と人形芝居の二座に対し、浅草観音北東の猿若町という辺ぴな場所に移転することを命じました。

新しい土地は、江戸歌舞伎の始祖猿若勘三郎の名をとって猿若町と名付けられましたが、三座が興業をはじめると次第にその周辺は活気がみなぎり盛り場化していきました。





「婦女の看劇が困難であったのを考えなければならぬ。明七つ(午前4時)から暮七ツ半(午後5時)まで、14時間の興業である。堺町葺屋町の時代でも、前夜は寝ずに支度をして、見物をすませた夜中に帰るのだ。まして浅草へ転地してからは、道中が一層長くなった。芝居茶屋へ一泊するか、或は親族故旧の家に世話になり、三日掛りの騒ぎやった。(稲垣史生編 三田村鳶魚 江戸生活辞典 青蛙房蔵版)」

そんな苦労までしても出かけたのですから、江戸の人々にとって芝居見物は無上の楽しみであったに違いありませんね。

(明日に続く。)
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