NPOな人

NPOの現状や日々の雑感などを徒然なるままにお伝えします。

太陰太陽暦

2021年02月10日 | エコでボランタリーな江戸の町

パソコンの脇に置いてあるカレンダーは、「太陽暦&太陰太陽暦」のハイブリットになっています。

これによると、明後日の12日が旧元日ですね。

時計が普及していない時代の日本では、月の満ち欠けをもとに、季節をあらわす太陽の動きを加味して作られた「太陰太陽暦」が使われていました。

太陰太陽暦では、月が新月になる日を月の始まりとして、各月の1日としました。

新月から新月までは約29.5日なので、12ヶ月間では約354日であり、現在の1年より約11日短いために、3年に1度ほど閏(うるう)月を入れて、ずれを修正しました。

昨年の4月の後に閏4月が入りましたので、次の閏月は2023年の2月ですね。

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幕末下級武士の絵日記

2019年08月02日 | エコでボランタリーな江戸の町

「江戸から北に一五里(約60キロ)ほど離れた武蔵野の一角に小さな城下町があった。幕末には松平氏所領の忍(しの)藩10万石の城下町(現在の埼玉県行田市)である。そこに尾崎石城(せきじょう)という下級武士がいたが、彼の書き記した『石城日記・七巻』が残されている。」

「その暮らしは、強制隠居させられた二度の咎めにも屈せず、むしろ現役の独身青年武士らしく学問と武芸に精を出し、中下級武士の友人たち、寺や料亭の多くの人びとと毎日のように交わり、日々の暮らしを淡々と、しかも楽しく生きている。」

いやぁ~、久々に面白い本を読んでいます。

 

 

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富嶽三十六景

2019年04月05日 | エコでボランタリーな江戸の町

前の席のH田さんが、昼休みに「富嶽三十六景」を解説した文庫本を買ってきました。

見せてもらったら、小粒ながら充実した内容なので、早速帰りにゲットしました。

この手の本は分厚い画集のようなものが多いのですが、読みたいのは解説ですからね。

復刻版ですが、我が家には神奈川沖浪裏、凱風快晴、山下白雨などがありますが、北斎って本当に深いですね。

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本棚あるある!?

2017年03月02日 | エコでボランタリーな江戸の町
丸善の江戸物コーナーを眺めていたら、「環境先進国 江戸」という本が目にとまりました。

ほとんど知っている内容だけど、整理された構成が気に入って買ってきました。

家に帰って本棚に入れようとしたら、「よう、兄弟!」という声が!!

えっ、あんた達は双子かい!!!

まあこんなこともあらーな、本棚あるあるってよ。

でも、これで双子は三組目だぜ・・・








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七草粥

2017年01月07日 | エコでボランタリーな江戸の町
今日は正月七日、七草粥を食べました。

子どもの頃、七草粥と十五日の小豆粥を食べるときには、卓袱台の中央に置かれたどんぶりに砂糖が盛られており、それをかけながら食べたものです。

変った食べ方だと思うかも知れませんが、江戸の風俗や事物を広く集めて分類、説明した守貞漫稿(筆者は喜田川守貞)に、次のような記述があります。

「正月十五日、十六日、俗に小正月という三都ともに今朝赤小豆粥を食す。京阪には此粥にいささか塩を加ふ。江戸は平日粥を食さず、故に粥を好まざる者多く、今朝の粥に専ら白砂糖をかけて食す也。塩を加えず。又今日の粥を余し蓄へて、正月十八日に食す。俗に十八粥という。」 

砂糖が貴重であった時代に、江戸の商人が示した精一杯の心意気だったのかも知れませんね。








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江戸にタイムスリップ

2016年10月08日 | エコでボランタリーな江戸の町
昨夜は、日本江戸しぐさ協会の「まなびや」で、熈代勝覧の話をさせていただきました。

熈代勝覧は、1999年にドイツで偶然に発見された化政時代の爛熟した大江戸の日本橋通りを描いた長大な絵巻物です。

江戸の町の生き生きとした風景からは、自身番屋などの町方による自治、寺子屋や火消しというボランタリーな活動、もったいないに象徴される環境循環型社会など、現代の私たちが見習うべきことが沢山見えてきます。

講座が終了したら、お約束の交流会。多士済々のメンバーの楽しい話で夜は更けていきました。

熈代勝覧の複製画は、日本橋の三越前駅の地下コンコースに設置されていますので、ぜひ一度ご覧ください。








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三田村鳶魚全集

2016年08月22日 | エコでボランタリーな江戸の町
こんな所に古本屋が、しかも軒先には、100円コーナーが!!

しかもその中には、三田村鳶魚全集が!!

鳶魚(えんぎょ)は、明治3年に八王子千人同心の家系に生まれ、日清戦争の従軍記者、報知新聞記者などを経て江戸の風俗や文化を研究した人です。

鳶魚の江戸学は非常に広範で多岐に渡り、三田村鳶魚全集は全28巻という膨大なものです。

出所が明らかでない聞き書きも多いので、やや割引しながら読まないといけないのですが、1巻が100円なら儲けもの。

でも重いので、今回は「第六巻 江戸のうらおもて 札差」「第七巻 江戸ツ子 江戸の生活と風俗」「第十巻 娯楽の江戸 江戸の食生活 花柳風俗」の3冊を買いました。

これで、300円也!!!

でも、恐ろしくマニアックだよね・・・







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江戸の町「巨大都市の誕生」

2013年04月08日 | エコでボランタリーな江戸の町
【新装版】江戸の町 巨大都市の誕生「上・下」 (著者)内藤 昌 (イラストレーション)穂積和夫





これまでに江戸に関する本は随分と読みましたが、江戸の町の成り立ちに関しては断片的な情報が多くて、なかなか整理できませんでした。

でも、この本は良いですね。江戸の町がどのような考えにもとづいて計画され、また実際にどのような町であったかを、平易な文章とイラストレーションで実に分かりやすく解説しており、江戸時代にタイムスリップしたような感じにさせてくれるのです。

江戸に関する本は増えるばかり、読みかけも「江戸文化再考」「歴史の中の江戸時代」「環境先進国・江戸」などなど・・・

まあ二百冊も読めば、「お江戸のボランタリズム」「エコなお江戸の3R」「もしドラと江戸大店の家訓」「江戸の豪商とCSR」「本町人と江戸しぐさ」なんていうテーマで話せるようになりますよね。
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江戸は、エコでボタンタリーな町だった!

2012年10月09日 | エコでボランタリーな江戸の町
先日、FBで「江戸時代の寺子屋や町火消はNPO的な存在で、人々の生活も究極ともいえるエコだった」と書いたら、感心が高かったようです。

大体は本棚に並んでいる本から得た知識ですが、読み直すにも時間がかかりそうです。





「エコでボランタリーな江戸の町」てーえのを語っちゃいますよ。


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江戸物書籍

2012年08月07日 | エコでボランタリーな江戸の町
日本NPOセンターが入居する新大手町ビルジングの目の前に、日本最大級の書店「丸善」が店舗を展開している丸の内オアゾがあります。

江戸物書籍のコーナーが充実しているために、昼休みになるとつい足が向いてしまうんですよね。

ということで、随分と読みかけの本が増えてしまいました。





江戸の文化の見方
大江戸ボランティア事情
江戸博覧強記
文明としての江戸システム
江戸商人の思想
伊勢詣と江戸の旅
江戸の遺伝子
江戸の教育力
江戸の火事
江戸文化再考
江戸に学ぶエコ生活術
江戸の危機管理

ちとセーブしないと大変なことになりそうです。



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江戸の新春 <初夢、宝船売り>

2012年01月03日 | エコでボランタリーな江戸の町
初夢は正月二日の夜に見る夢で、江戸時代には吉夢を祈って枕の下に七福神が乗った宝船の絵を敷いて寝る習慣がありました。

恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、布袋、福禄寿、寿老人の七人の神様からなる七福神は既に室町時代には農民や漁民の間で広く信仰されていたようですが、この宝船の絵を売るのがお宝売りで「えー、お宝、お宝お宝」と言いながら人通りの多い所にやってきました。

お宝には、「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな(長き世の遠の眠りのみな目覚め波乗り船の音のよきかな)」という回文(上から読んでも、下からでも、同じ読みになる言葉)が添えられていました。

七福神の由来は仁王経の「七難即滅、七福即生」で、「世の中の七つの大難(太陽の異変、星の異変、風害、水害、火災、旱害、盗難)はたちどころに消滅し、七つの福が生まれる」という意味があります。

昨年は大災害や経済危機などが続き大変厳しい一年でしたが、今年こそは七福神にあやかり良い年にしたいものですね。

災いを転じて福に去年今年(修平)
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江戸の新春 <年礼>

2012年01月02日 | エコでボランタリーな江戸の町
江戸時代は、譜代大名や旗本達は将軍に年始の賀のために元旦から登城しましたが、大晦日の夜中まで動き回っていた町方では疲れから寝静まっており、年始回りは二日から始まりました。

元日やさてよし原もしづかなり

不夜城といわれた吉原も、元日の静けさは格別であったようです。

二三軒よろよろすると日が暮れる

町方では、年始にいくと必ず家に上げて酒を飲ますのが習慣になっていましたので、20軒行く予定のところが、二三軒になってしまうこともあったようです。

生酔は御慶に節をつけていひ

御慶とは一番短い正月の挨拶です。
落語に、富籤に当たった八五郎が、大家に教えてもらった御慶という挨拶を連発する「御慶」という噺がありますが、酒が入ると年始の挨拶にも調子をつけてしまうようです。

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江戸の新春 <屠蘇、雑煮>

2012年01月01日 | エコでボランタリーな江戸の町
江戸の家々では、元旦は長寿健康を祈願して屠蘇を飲みました。

死者も蘇るという名のついた酒は、酒というよりは薬で、屠蘇散は医者が歳暮として患者の家に配ったそうです。

屠蘇を祝った後は、いよいよ正月の膳をいただくことになりますが、膳の主役は雑煮です。

江戸の雑煮は、焼いた切り餅に鰹節でとった醤油のすまし汁、具は小松菜・大根・里芋という素朴な内容でしたが、これは家康が江戸入りしたときからものもので、我が家でもほぼ同じレシピでいただいています。

又一つ年の蓋取る雑煮椀

江戸時代は数え年のため、正月を迎えると一つ年をとることになっていたわけです。

落語で、呉服屋の主人で御幣担ぎ(縁起担ぎ)の五平衛さんを番頭が、「雑煮の餅から釘が出てまいりました。餅から金が出る。お店がますますお金持ちになる吉兆でございます。」と喜ばせるところから始まり、最後に宝船売りが「旦那様はにこにこ恵比寿顔で、あちらの綺麗なお嬢様は弁天様で・・・、こちらのご商売が呉服(五福)でございます。」と七福神になぞらえて落ちをつける「かつぎや」という噺がありますが、宝船売りについては3日のブログでご紹介したいと思います。

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江戸の暮れ <かけ取り>

2011年12月31日 | エコでボランタリーな江戸の町
江戸時代の商家では、勘定は盆暮れにまとめて清算することが一般的でした。

特に、暮れの勘定は一年の総決算ですから、大晦日は一日中かけ取りに歩かなければならず、年に一度の戦場となりました。

武蔵野の蛍合戦大晦日

これは夜に入って提灯をつけて歩くかけ取りの姿を表現した川柳で、大晦日の押し詰まった様子が分かります。

掛取も二足三足春を踏み

中には、夜が明けてもまだ頑張っている者をいたようです。

落語では、暮れのお金にまつわる噺として「芝浜」「文七元結」「富久」「にらみ返し」「掛取り」などがありますが、12月28日で仕事納めとなる仕事場が多くなった昨今では、こうした噺を理解できる方も少なくなったのではないでしょうか。
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江戸の暮れ <才歳市>

2011年12月30日 | エコでボランタリーな江戸の町
子どもの頃、正月になると門付け万歳が町を回っており、我が家にも来た記憶があります。

万歳は、三河地方の祈祷師たちが正月に江戸に出かけて、三河と縁のある武家などを回るようになったことが起源だといわれています。

三河万歳は、太夫と才蔵が新春をおめでたく歌い踊って歩くものですが、三河から出てきた太夫が相方の才蔵を江戸に出てから雇うこともあったようです。

「三河万歳、江戸に下りて毎歳極月(しわす)末の夜、日本橋の南詰に集まりて、才蔵をえらびて抱ゆるゆえなり。これを才蔵市という。(江戸名所図絵)」

才蔵は、農閑期の出稼ぎとして房総方面からやってくる農民で、これらのうちから自分の相方となる愛嬌のいい男を捜し出し、にわか仕込みで練習をしてから市中を流し歩いたとのことです。

三河から江戸橋にきて伴を買い

今では門付け万歳を見かけることもなくなりましたが、各地の保存会により芸能として伝承されているようです。
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