NPOな人

NPOの現状や日々の雑感などを徒然なるままにお伝えします。

勤番長屋のくらし

2010年09月20日 | エコでボランタリーな江戸の町
昨日、江戸の町民人口は五十三万人といいましたが、武士はどのくらいいたのでしょうか。

江戸では武士人口の統計調査は行われていませんが、例えば、54万石の尾張藩の場合、家臣のための長屋が幕末期には40ケ所以上もあり、江戸勤仕の家臣数はその奉公人を含めて5000~6000人以上におよんだといわれています。

また、10万石の出羽庄内藩の場合、ふだんは430人ですが、殿様が参勤交代で江戸へやって来ると、780人ほどに膨れ上がったということです。

藩の数は、幕末には260くらいありますので、半数の大名が江戸にいると計算して藩士の数を割り出すと約15万人ほどになります。それに旗本・御家人とその家族がいますので、江戸における武家人口は約50万人と推計されています。

諸藩の江戸屋敷に勤務する武士を江戸勤番または勤番侍といいますが、その勤務形態には、参勤交代で江戸に到着したあとすぐに帰国する「立帰り」、藩主とともに1年間江戸で勤務する「江戸詰」、役目がある間は江戸にいる「定府」の3種類がありました。

「江戸詰め」は1年の単身赴任で、江戸屋敷の敷地内に建てられた「勤番長屋」に住んでいました。通常、勤番長屋は二階建てで身分によって部屋の大きさはまちまちですが、六畳一間という場合も多く裏長屋と大差はなかったようです。

勤番武士の勤めは3日か4日に一度、それも午前中で終わってしまいますので、彼等は暇をもてあましていました。しょっちゅう江戸見物に出かけていたようで、現在でいうと滞在型の観光をしていたといえるでしょう。




忠臣蔵で有名な吉良邸
敷地は東西に七十三間七尺五寸(約135メートル)
南北に三十四間二尺八寸(約63メートル)
二千五百五十坪(8450平方メートル)
敷地の左側の建物が長屋(三十軒)
「図説 見取り図で読み解く江戸の暮らし(中江克己:春秋出版社)参照」


(明日に続く。)
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