3月6日、急に『大殿地域交流センター』に行くことに決め、地図検索をすると、偶然大きなお寺が
あることが分かり、何も調べる時間もないまま、車を走らせました。
5つ目の信号を左でしたが、4つ目の信号を左に回ってしまいました。
直ぐ、広々とした整備された道に出ました。
駐車場も『大殿地域交流センター』の駐車場の隣は『龍福寺』の駐車場でした。
主人はすぐ中に入りましたが、私はC-PLフィルターに変へ、庭のように植木が植えられ山門の前から
案内板などを読んでゆっくりと一礼し、山門をくぐりました。
その時は分からなかったのですが振り返ると山道があり、サクラの時期にはこの場所から見事な桜を
見ることができたでしょう。
豊後岩の由来の案内板
『太内氏に歴代政庁をこの地に置き、西日本に覇を担っていたが後には防・長・芸・備・石豊・筑の
7カ国の守護を兼ね、その富と権力は天下に並ぶべきものがなかった。
当時 世の中は兵乱にあけくれていたが、山口の町は平和を保っていたので戦乱の都をさけてこの山口に
来る公卿・文人が多くあり、いわゆる西の都の繁栄があった。太内氏はこれらの来訪の客をもてなした。
邸前に宏大壮麗な築庭をした。
そこには流水がありました。当時珍しい蘇鉄が植えられたりしたが、使用した岩は全部豊後の国から
舟で持ってきたものであった。
しかしこれらの岩は豊後の国を恋しがって雨の夜は「豊後に帰りたい」といって泣いていたという。
このような立派な岩も太内氏の滅亡後は荒廃して、わずかに豊後岩だけがここに残って往時の栄の跡を
しのばせている。』との案内板がありました。
※ 岡山から大分までを支配していたそうですが、豊後は大分です。
豊後岩の事は帰宅後知ることになり、岩の確認が出きず残念です。
『討つ人も 討たるヽ人も 諸ともに』と書かれています。
写真は沢山撮りましたので、今日の写真はまだ未発表のものばかりです。
我が家の寒アヤメは、例によってに抜かれてしまいました。
同じ、乙女椿を移植しています。水不足で弱りました。枯れると思います。可愛いお花ですが・・・
似たような写真は出していますね。
余り遠くに来ることが在りませんので、備忘録としてもアップしたいと思います。
『大殿地域交流センター』に飾られたお雛様、毎年、飾らして下さるそうです。