プロパガンダとは「怒り」。
最近そう思う。
家庭連合はここ50年くらい、反対派にいじめられていますが、それは反対派(共産党、霊感弁連)のプロパガンダ戦略が奏功してきたから。
カルトなんだ、マインド・コントロールなんだ、正体隠しなんだ、、
弁護士を何人も並べて記者会見。「怒り」を代弁または「捏造」するパフォーマンスに長けている。
嘘つきと後に判明した小川さゆりを利用して、外国特派員教会で会見させたり。
あれで彼女の人生は台無しになったんだけど。
親子は人生の土台。親との関係を断ち切ることは、人生を文字通り「台無し」にする。
小川は引っ込みがつかなくなって今さら親に泣きつけない。霊感弁連は小川さゆりの人生を弄んだ。
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確かに、30年前は、家庭連合用語で「バリ教」って言うんですかね、原液の濃すぎる信仰を持て余し、振り回し、焦って地上天国を築こうとしすぎて、世間との軋轢を生んだ。
ただ、東西冷戦がある時代、ざっくり20世紀までは、メディア勢力がある程度は均衡していた。
大手の朝日新聞とかが、拉致監禁を報じていた。今よりはメディアは中立的だった。
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しかし。
東西冷戦が終結し、「反共・勝共のナラティブ」が説得力を失ってからは、家庭連合は、劣勢になった。プロパガンダ的に。
だって、「怒り」の対象が消えたから。
共産主義に勝つぞ、オー!ってのが勝共の意味ですが、1992年にフランシス・フクヤマが『歴史の終わり』とかを書いちゃって、もうイデオロギー闘争は無くなるんだよ、ってなった。
※ ちなみに私はこの本を高校三年生で読んだ。世界史の赤堀先生に勧められて。
そこからイデオロギーが訴求力を失った。イデオロギー的色彩の「怒り」が通じなくなった。
そして、2009年のコンプラ宣言までは、家庭連合の「篤すぎる信仰」が「熱すぎるイタいヤツら」と見られる部分があった。その残滓があった。
だからメディア的にも劣勢になった。反家庭連合の方が、「怒り」のナラティブを上手く利用できた。
今の家庭連合の窮状は、結果論ですが、こうやって「プロパガンダ的に」劣勢になったことに、一つの原因がある。
世間が変わると、影響されて裁判の結果も変わりますし、、、
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家庭連合さんも、勝共のナラティブを、今は拉致監禁への「怒り」のナラティブに変えて、頑張っている。
特に、昨年7月末の宗教2世シンポジウム@市ヶ谷で、鈴木エイト氏が、福田ますみ氏に「12年半拉致監禁された後藤徹さんをなぜ引きこもり呼ばわりする?」と問われて、
「どうでもいいです。ご自由に受け取ってください」
って言った瞬間から、火がついた。怒りのナラティブが沸騰した。
許せん。
黙っちゃおれん。
そこから、全国各地で、拉致監禁の被害を訴えるシンポジウムが、もう、20個くらい、開催されている。
「拉致監禁被害者が、背教者となり、嘘つきになり、家庭連合に対する献金被害を訴えてきた」というナラティブを伝えるために。
希くば、この怒りのナラティブが、マスメディアにより展開され、そして最終的には裁判所に届かんことを。
私が24年も学んでいる新極真空手には、道場訓がありまして、その5番目が
神仏を尊び、謙譲の美徳を忘れざること
なんですね。
え、神仏を尊ぶ? 空手とは関係ないじゃん、って思うかもしれない。
私も最初はやや違和感を感じたように記憶する。
しかし。
神仏を尊ばないと、ほんとうの意味で謙虚になれない。謙譲の美徳を身につけることはできない。
謙譲の美徳を身につけなければ、肉体的に強くなっても、意味がない。
肉体的に強くなると、えてして、傲慢になって、人をいじめたり、殴ったり、殺めたりすることがある。
それはいけない。
知恵なき力は暴力である。
武を悪用せぬために、武の道を修める者は、同時に、謙譲の美徳を身につけなければいけない。
そのためには、いろんな工夫があろう。
いろいろ謙譲の美徳を身につける工夫がある中で、極真会は、大山倍達総裁は、
神仏を尊ぶ
ということを掲げた。
神仏を尊ばぬ者は、真に謙虚になることはない。
人間世界だけしか知らぬ者は、傲慢になってしまう。
神仏、造物主、サムシング・グレート、かたじけなさに涙こぼれる(@西行法師)存在を感じるからこそ、ほんとうの意味で謙虚になれる。
そう考えているからでしょう。
ちなみにこの道場訓は、吉川英治が監修しました。
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無神論者として神仏を尊ぶ姿勢を見せない鈴木エイト氏とか紀藤正樹氏の傲慢さを見るにつけ、我が極真会の素晴らしき道場訓を誇らしく思う。
神仏は信じなくてもいい。でも尊ぶ姿勢はほしい。
神仏を尊び、謙譲の美徳を忘れない人間でありたい。
押忍
『易経』の大象伝に
君子は恐懼して修省す
とある。
立派な人間は恐懼する。恐れる。畏れる。かしこまる。
天皇が代々「薄氷を踏むように」生きてこられた。
天皇制を維持するため、民草の上に立つため、国民の信頼を得るため、一挙手一投足、命を削り、気持ちを込めて、心を尽くして行ってこられた。
それが君子は恐懼する、ってことだろうし、天皇が「薄氷を履む」ってことだろう。
こちら ↓
↑ 天子は薄氷を履む、って漢籍のエピソード。
天子は戦々恐々としている。恐々は、「兢々」と昔は書いた。
天子はビクビクしている。いい意味で。
いつ何時、ゆえない、心ない、悪意の批判に晒されるか、わからない。
そんな「いざ」というときのために、常に気を張り詰めて、準備している。
つまり、
「いざ」というときが「いま」であり、
「いま」が「いざ」というときである。
そんな気構えでいる。それが「薄氷を履む」ということ。それが「恐懼する」ということ。
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皆が見ている。天(神、造物主)も見ている。
鼻くそもほじれない。唾も吐けない。仏頂面もできない。常に微笑みをたたえる。
内心は、むかつくこともあるだろう。気に入らないこともあるだろう。不本意なこともあるだろう。
そんな悪感情を全て押し殺して、または昇華させて、人の範たる振る舞いをする。
一瞥として、人目として、切り取られた場合に、「嫌な目つきだ」と思われるような表情をすることもできない。
パパラッチに悪意で切り取られても、それでも批判されないような姿勢と表情をする。
笑い方一つをとっても、「ウッヒャッヒャ」みたいな下品な笑いはできない。
生活のどのシーンをとっても、どの一瞬を切り取っても、批判に耐えうるような振る舞いをする。
四六時中、365日、「批判に堪える」言動をする。
息が詰まる。
私のような凡夫には息が詰まる。
こういう「息が詰まる」生活をされているのが、皇族の方。
天皇制を維持するため、もう生まれた時から、死ぬ瞬間まで。
これが皇族であり、天皇家。
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ちなみに、中国の皇帝とはだいぶ異なる。イメージが。中国皇帝って、毛沢東までそうでしたが、酒池肉林で豪快に君臨して天下を睥睨して、、ってイメージがある。
↑ の本には、毛沢東が短小のイチモツを洗いもしなかった不潔な男だ、ということまで書かれている。
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この「薄氷を履む」「恐懼する」「戦々恐々とする」のは、何も天子・国家元首に限られない。
社長もそうだし、総理大臣もそうだし、部長や課長、人の上に立つものは皆持つべき規範でもある。
ま、課長レベルで、そこまで自分を高めようとしている方はいらっしゃらないかもですが、、
真摯な生活を送る、というのはこういうことだと思っている。